尹黙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
尹 黙(いん もく、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の人物。蜀漢の学者・政治家。字は思潜(しせん)。益州梓潼郡涪県の人。子に尹宗。『三国志』蜀志に伝がある。
生涯
地元の益州において学問に励んでいたが、益部では今文の学を前提とする場合が多く、字句の正確な読みを追求しない傾向があった。
尹黙は広い視野で学問をするために、李仁(李譔の父)と共に荊州に遊学し(「李譔伝」)、司馬徽・宋忠らに師事して古文の学を学んだ。
あらゆる経書・史書に通じ、特に『春秋左氏伝』を詳しく研究し、劉歆の条例や鄭衆・賈逵父子・陳元・服虔の注説などをほぼ暗誦したため、二度と書物を調べ直す必要はなくなったほどであった。
建安19年(214年)に、劉備が益州を手に入れ牧を兼務すると、尹黙は勧学従事[1]に任命された。
建安25年(220年)、同僚たちと共に、帝位に就くようにとの上奏文を劉備に奉じた(「先主伝」)。
章武元年(221年)5月、劉禅が立太子されると、尹黙は太子僕に任命され、『春秋左氏伝』を教授した。
建興元年(223年)5月、劉禅が即位すると諫義大夫に任命される。その後、漢中に駐屯していた諸葛亮の要請により、軍祭酒に任命された。
建興12年(234年)、諸葛亮が病没すると成都へ帰還し、尹黙は太中大夫に任命された。その後、時期は不明だが成都で死去した。子の尹宗がその学問を受け継ぎ、博士となったという。
小説『三国志演義』にはほぼ名のみの登場である。