摂家将軍
摂家将軍(せっけしょうぐん)は、鎌倉幕府将軍のうち、第4代藤原頼経とその嫡男の第5代藤原頼嗣の2人の将軍のこと。
3代将軍源実朝が暗殺され、その源実朝に子がいなかったことにより源氏嫡流たる将軍家である(河内源氏義朝流)が途絶えた。源氏将軍なき後の鎌倉幕府は執権北条氏は、源頼朝の妹の曾孫にあたる頼経を2歳で鎌倉殿として迎えた。藤原頼経は、名門公家の九条家の出身で、摂家の家格を有していたことからこの名でよばれる。
実朝亡き後、頼朝の兄弟をはじめ源氏の一門、遠縁が絶えたわけではなかったが、謀反の罪で追討を受けた者も多く、執権北条氏の権勢が強まる中で、御家人から信奉を集めやすい源氏将軍は執権政治の維持の上では不都合もあった。 また、実朝死後、幕府の指導的立場にあった頼朝正室 北条政子は、後鳥羽上皇の皇子を後継将軍にと望むものの、断られたため、他家より養子を探す他はなかった。 その点、頼経の生家である九条家は、後に五摂家の一翼で五摂家筆頭の近衛家に次ぐ家門であるとともに、家祖の九条兼実は頼朝の政治的な盟友であり、源氏将軍とは縁戚関係にあった。さらに、頼経の母は関東申次として朝廷と幕府の橋渡し役を果たした西園寺家の出身であり、親幕府的な家系である。 そこで、当時は未だ物心すらなき幼児であった頼経が、将軍として推戴され、二代将軍頼家の娘 源鞠子をその室とした。もともと縁戚関係にあったとはいえ、3代にわたり源氏将軍を主宰者とした鎌倉幕府で藤原氏の将軍は前代未聞のことであり、幕府では頼経の源氏改姓も審議されたが、藤原氏のままとされた[1]。
当時の血族観念として源平藤橘といった「氏」の下位概念として「家」「苗字」という概念も生じ、同じ氏族の者が後継者となることを家督を継ぐ、異なる氏族の者が後継者となることを名跡を継ぐといった[2]。藤原頼経はまさに河内源氏たる源氏将軍そのものではなく藤原氏のまま鎌倉将軍家という家を相続したといえる。
摂家将軍が誕生する以前、後鳥羽上皇により承久の乱が勃発し、朝廷と幕府との関係は険悪となったが、このときは幕府の圧勝に終わるものの、朝廷から将軍を任命される武家政権という性格上、朝廷との関係は重要であった。摂家将軍は、朝廷における人臣最高の家系より招くことで朝幕関係の紐帯として期待された。さらに、摂家将軍以降、都から招かれる将軍は、摂関政治旺盛の時代の天皇のように幼い間のみ将軍として擁立し、成人してからは都に返されるということが慣例となった。摂家の家格を持つ九条家の一門のままにしておくことで京都への帰還が容易であることも摂家将軍を擁立する思惑のひとつであった。
頼経、頼嗣二代の摂家将軍は官位こそ源氏将軍と遜色はないものの、摂関に上る可能性を秘めた人物だけに鎌倉将軍をより高貴な位置へ、しかも、武家の棟梁という性格から遠ざけるという意味で大きな意味を持った。4代執権北条経時と、5代執権時頼は、いずれも将軍藤原頼経の偏諱を受けているが、鎌倉幕府の権威として執権政治を安泰たらしめるという意味でも摂家将軍の意義は大きかったといえよう。
頼経、頼嗣二代の摂家将軍の在任期間は、それぞれ藤原頼経が18年間(1226年 - 1244年)、藤原頼嗣が8年間(1244年 - 1252年)と比較的長期間ではあったものの、幼いころから成人するまでの期間で政治的な力も全くなく、幕府の実権は、北条氏が完全に掌握していたため将軍とは名ばかりの傀儡であったが、特に藤原頼経は、傀儡であることを嫌ったがため北条氏によって煙たがられた不遇の将軍であり、足利泰氏ら御家人と結びつき幕府内紛の兆しがあり、執権への「謀反」を疑われた。こうしたことも、幕府が高貴で幼い鎌倉将軍を擁立し続ける大きな要因となった。
頼嗣の後の将軍は後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王が1252年に迎えられ、鎌倉幕府は皇族将軍が就くことになるが、実権なき象徴として皇族に勝る存在はなく、結果的に摂家将軍は宮将軍を擁立する上で大きな布石としての意味を果たした。
脚注
参照文献
- 岡野友彦著『源氏と日本国王』(講談社、2003年)