「桂文紅 (4代目)」の版間の差分
(相違点なし)
|
2014年6月30日 (月) 18:04時点における最新版
4代目 桂 文紅(4だいめ かつら ぶんこう、1932年4月19日 - 2005年3月9日)は、上方噺家。出囃子は『お兼晒し』。大阪府生まれ。寝屋川高等学校、立命館大学文学部出身。本名:奥村 壽賀男(おくむら すがお)。テンプレート:没年齢。
芸歴
1955年3月、4代目桂文團治に入門。桂文光を名乗り、同年に大阪松島福吉館で初舞台。
1959年2月、4代目桂文紅を襲名。1970年から1975年にかけて、3代目桂文我と「文文の会」を開いた。
「上方落語四天王」(6代目笑福亭松鶴、5代目桂文枝、3代目桂米朝、3代目桂春団治)に次ぐ世代として、戦後の上方落語復興期をともに良く支えた。
人物
弟子を取らず孤高の存在であったが、渋い味のある芸風で、ファンも多かった。色黒で背が高く、自称「エチオピアの煙突掃除」。師匠の文團治のあだ名が「ゴジラ」だったので、入門当時はゴジラ映画の敵役の怪獣の名から「アンギラス」とも呼ばれていた。
得意ネタは『鬼薊清吉』『島巡り』『胴取り』『初天神』『米揚げ笊』『ふたなり』『植木屋娘』など。また、文才があり、「青井竿竹」のペンネームで、テレビ、ラジオの構成、脚本の執筆や上方落語の研究を行い、『ぜんざい公社』『テレビ葬式』などの改作・新作も物にした。余芸で紙切りが得意だった。他にも顔のしわにタバコを何本もはさむ珍芸があった。
晩年は上方落語協会の理事を務め、特に笑福亭鶴瓶、笑福亭瓶太、笑福亭三喬や笑福亭喬若らとは、稽古を付けたり、共に落語会を開くなど、公私に渡り交遊があった。
駆け出しの頃の2代目桂ざこばは、文紅の東住吉時代から数度の転居につきあって居候を続け、「社長」と呼んで慕っていた。
また、ざこばの師匠、3代目米朝にとっては系図上唯一の従兄弟弟子にあたる(春団治・文枝・東京の桂米丸・10代目文治一門はそれより以前に枝分かれした系統である)ことや、米朝の師・4代目米團治早世後、米朝が文紅の師・4代目文團治にも多く落語を教わっていたこともあり、米朝一門全体との交流も深かった。ただし、米朝事務所所属では無かった(存命中はよく勘違いされた)。
全くの下戸で、酒が飲めなかった。一度、腹に据えかねることがあって、そのときはざこばにバナナの束を買ってこさせ、「自棄酒」ならぬ「自棄バナナ」をあおった。その数時間後に腹痛を起こして病院に担ぎ込まれ、診断の結果は腸捻転だった。この「文紅の腸捻転」といえば有名な語り草である。
師・文團治逝去の時点で、存命かつ現役落語家である唯一の弟子であった。文團治の襲名を周囲から勧められたが、「まだ尚早」として拒み、40年に渡ってその名を封印し続けた。
2005年3月9日、肝硬変のため、死去。これによって4代目文團治の直系は断絶した。
著書
出典
- 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
- 『上方落語家名鑑』(やまだりよこ著、出版文化社、2006年)