大阪府立泉尾高等学校

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テンプレート:日本の高等学校 大阪府立泉尾高等学校(おおさかふりつ いずお こうとうがっこう)は、大阪府大阪市大正区にある公立高等学校

概要

1921年に創立。高等女学校時代からの校訓は「純真清楚」。校是は、学制改革時の交流先旧制今宮中学校から引き継いだ「質実剛健」。

全日制普通科だがコース制も導入し、多様な選択科目を設置している。また、英語数学の授業では少人数指導も導入し、2007年度から大阪府教育委員会からアクティブ・ハイスクールに指定され、教頭2人体制、キャリアアドバイザー配置などを実施し、夏には隣接のセミナーハウス(同窓会館「白稜会白百合会館」)で勉強合宿を実施している。

6月の体育祭と11月の文化祭をあわせて「泉高祭(いずこうさい)」と呼ぶ。体育祭は、各学年を6つないし7つに分割し、上下級生で一体の「団」と呼ばれる“縦割り”チーム編成で激しい応援を競うのが特色。11月に開かれる文化祭は模擬店の多さ、全クラスが個別に垂れ幕を作りPRするのが特色。舞台演劇、ヒップホップダンス、軽音楽部によるバンド演奏のほか、同校教師陣による「先生バンド」がフィナーレを飾る。

毎夏、生徒会執行部が24時間テレビチャリティーキャンペーンにあわせ地元商店街に夜店を出し、売上げ金を寄付している。また、大阪市環境局の協力で、地域清掃活動「泉高クリーンウォーク」を定期的に行っている。

沿革

1921年3月31日付で大阪府立第七高等女学校として設立認可され、同年4月8日より大阪市西区市岡町(現在の港区波除2丁目)の大阪府立市岡高等女学校(現在の大阪府立港高等学校)を仮校舎として授業を開始した。

1922年4月1日付で大阪府立泉尾高等女学校と改称し、同年6月1日に西区泉尾町(現在地)に移転している。現在地へ移転した6月1日を創立記念日としている。

1923年6月には制服が制定された。府立高等女学校で制服が制定されたのは、泉尾高等女学校が初めてである。また1924年2月には府立高等女学校で初となる鉄筋コンクリートの新校舎が落成している。

1934年9月21日室戸台風では校舎が被災し、しばらく授業中止となった。

1940年には校内に大阪府泉尾臨時教員養成所を併設した。臨時教員養成所は終戦直後の1945年9月に閉鎖されている。

同窓会・白百合会(1982年白稜会に改称)が母体となり、1941年に郊外学舎・白百合学園設立を決定した。白百合学園は奈良県生駒郡生駒町俵口(現在の生駒市俵口町)に設置され、郊外農園での農作業のほか、白百合幼稚園を併設して保育実習も実施していた。

太平洋戦争の戦局悪化により、生徒は1944年以降近隣の工場に勤労動員された。1945年3月13日の第一次大阪大空襲では校舎が被災した。

1945年3月から終戦まで大阪府立泉尾高等女学校・大阪府立市岡高等女学校・私立明浄高等女学校の大半の生徒は、国家の命により、大阪府枚方市にあった陸軍造兵廠香里製造所において、昼夜二交代で火薬の粉塵が舞う劣悪な環境の中、爆弾・砲弾の製造作業に従事。この体験を無にしないため、同地には非戦の誓いの碑が建てられている。

1948年の学制改革により、大阪府立泉尾高等学校となった。大阪府立今宮高等学校(旧制今宮中学校)および大阪市立南高等学校(旧制南高等女学校)と生徒・教職員を交流し、男女共学となった。

1978年に校舎改築工事が開始され、1981年3月に完成している。

年表

出身者

学者

芸術・芸能

経済

  • 西岡明賜 - 大手流通グループイオン (企業)のドラッグ事業EC議長、元マイカル社長
  • 面屋龍延 - 清風堂書店社長、日本書店業協同組合副会長、大阪府書店商業組合理事長

スポーツ

その他

関係者

交通

参考文献

関連項目

外部リンク