大内啓伍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年5月29日 (木) 10:37時点における沙馬琉寛土 (トーク)による版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:政治家 大内 啓伍(おおうち けいご、1930年1月23日 - )は、日本政治家勲等勲一等衆議院議員(通算6期)、厚生大臣第76代第77代)、民社党委員長(第7代)、同党書記長、同党政策審議会長、自由連合総裁(初代)などを歴任。

概要

民社党職員

早稲田大学法学部卒業、イェール大学留学。学生時代は当初司法試験受験を目指していたが、実家である銀座の割烹旅館を訪れていた春日一幸衆議院議員に誘われ政界入りする。

1953年右派社会党政策審議会事務局に就職。1960年民社党結党に参加し、党政策審議会事務局長、副会長を歴任した。1971年には民社党の理論誌『革新』を創刊し、編集長に就任(寺井融によると、実務は寺井が行ったという。連載「裏方物語」 2)した。

1973年アウグスト・ピノチェトによるチリ・クーデター後、民社党チリ調査団の一員としてチリに入国し、12月18日にピノチェトの取材を行った。

衆議院議員

1976年12月、第34回衆議院議員総選挙にて旧東京都第2区より初当選した(当選同期に青山丘中井洽中野寛成米沢隆など)。旧東京2区は石原慎太郎自由民主党)や上田哲日本社会党)、鈴切康雄公明党)らがしのぎを削る激戦区であり、大内も党幹部でありながら毎回苦戦を強いられた。

1977年11月、当選1回ながら民社党政策審議会長に就任し、1985年4月、書記長に昇格した。しかし、衆参同日選挙となった1986年第38回衆議院議員総選挙では、撚糸工連事件で疑惑浮上した横手文雄の離党記者会見に同席した影響からか大内自身も落選した。落選後も書記長にとどまっていたが、1989年2月、塚本三郎党委員長がリクルート事件に関与したとされる疑惑の責任を取り執行部が総退陣し、大内も書記長を辞任。

民社党委員長

1990年2月の第39回衆議院議員総選挙で代議士に返り咲き、同年4月党委員長に就任、鈴木尚之を秘書に採用した。しかし、1992年7月の第16回参議院議員通常選挙で民社党は敗北し、同党は交渉会派から転落した。1993年7月の第40回衆議院議員総選挙では解散前微増の15議席を獲得。

TBSクイズダービー』の「野党の委員長と1年生議員大会」で当時1年生議員の柳田稔と出場し見事10万点を達成。

非自民連立政権

第40回衆議院議員総選挙の結果を受け、民社党を含む非自民8党派は細川護熙を首班とする連立政権の樹立に合意した。細川内閣で大内は厚生大臣として入閣した。1994年2月に細川首相は消費税を7%とする国民福祉税構想を発表するが、この構想を大内厚相は全く知らず、武村正義内閣官房長官村山富市社会党委員長らと共に反対した。1994年4月に羽田内閣でも厚生大臣に再任されたが、2ヶ月で内閣総辞職した。なお、同年6月に党委員長を退任。

同年12月、新進党へ合流するため、民社党は解党。しかし、創価学会を支持母体とする公明党が新進党に合流することを理由とし、大内は党常任顧問の塚本三郎とともに新進党への不参加を表明した。塚本は霊友会、大内は立正佼成会の支持を受けていたことが背景にあった。塚本は直接、大内は自由連合を経由し、村山内閣で与党に復帰した自民党に入党した。なお、自由連合では総裁の地位にあった。

1995年には自民党東京都連の最高顧問に就任し、2000年まで務めた。

1996年10月の第41回衆議院議員総選挙には東京4区から自民党公認で出馬するも、落選。1998年、東京4区補欠選挙にいったん出馬を表明したが自民党幹事長加藤紘一から次期衆院選比例上位を確約され不出馬。

2000年の第42回衆議院議員総選挙では比例東京ブロックから自民党公認(名簿単独5位)で出馬したが、落選。

政治思想

チリ・クーデターを支持

反共主義を信奉しており、1973年のチリ・クーデターを支持した。

『朝のこない夜はない : 保革伯仲から連合時代へ』によれば、大内はピノチェトの倒した左翼サルバドール・アジェンデ政権が、選挙保守中道共倒れによる漁夫の利(得票率36.3%)であることを理由に「必然性のない政権誕生」(44ページ)と主張。「国民生活は破壊され暗黒社会の様相」「自由と諸権利が不法に侵され」(前掲書56ページ)たと厳しく批判した。

その上で、「議会制民主主義を至上のものとするわれわれが、軍事クーデターそのものを容認することはできない」と前置きしつつ、「軍の行動を必然化させたアジェンデ政権の無法なやり方そのものに根本の問題がある」(前掲書71ページ)と主張した。

ピノチェトの「経済の状態が回復されたとき、そこに新憲法を制定し、新しい議会を創設し文民政治に服する」との発言を引き、「それには最低二、三年の年月を要することであろう。(中略)いま左翼の間では、クーデターの責任を米国に転嫁しようとしたり、またクーデターによる殺傷、抑圧を強調することによってアジェンデ政権の姿勢を合理化しようとする試みが盛んに行われている。しかしそのようなことは、チリの大多数の国民の受け入れないところであろう。/ 私は自分の耳と目で、そのことを実際にチリで確かめてきた。」(前掲書72〜73ページ)と結論づけている(チリの「新憲法」制定は1980年で、ピノチェトの独裁は1990年まで続いた)。しかし、ピノチェト政権下のチリでは非共産勢力(キリスト教民主党など)も少なからぬ弾圧を受けていることから、大内の発言はまったくの虚偽であることは後に明らかになる。

大内がクーデターを支持したのは、国内の政局において選挙協力連立政権構想から日本共産党を排除する狙いもあった。大内は「マルクス・レーニン主義勢力は、チリの場合のみならず、その独裁政権を確立する過程でつねに連立政権を求めてきた」(前掲書76ページ)と定義づけ、日本共産党も他の共産主義政党のように独裁政権を狙うと非難した。日本共産党排除の大義名分とするためには、アジェンデ政権を「独裁政権」として全否定する必要があったのである。

略歴

  • 1953年 - 右派社会党政策審議会事務局。
  • 1960年 - 民社党結党。
  • 1971年 - 党機関紙『革新』編集長就任。
  • 1973年 - 民社党チリ調査団。
  • 1976年 - 第34回衆議院議員総選挙当選。(以来、連続4選)
  • 1977年11月 - 民社党政策審議会長就任。
  • 1985年4月 - 民社党書記長に昇格。
  • 1986年 - 第38回衆議院議員総選挙落選。
  • 1990年2月 - 第39回衆議院議員総選挙当選。(以来、連続2選)
  • 1990年4月 - 民社党委員長に昇格。(1994年5月退任)
  • 1993年8月9日 - 厚生大臣として初入閣。(翌年6月退任)
  • 1994年12月9日 - 民社党解党。自由連合を経て、翌年、自民党入党。
  • 1996年10月20日 - 第41回衆議院議員総選挙落選。
  • 2000年4月29日 - 勲一等旭日大綬章受章。
  • 2000年6月25日 - 第42回衆議院議員総選挙落選。

文献

著書

  • 『朝のこない夜はない : 保革伯仲から連合時代へ』富士社会教育センター出版局、1975年
  • 『われ、事に後悔せず』大和出版、1995年3月、ISBN 4804713417


  1. 転送 Template:S-start


テンプレート:S-off |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
丹羽雄哉
羽田孜(臨時代理) |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 厚生大臣
第76代:1993年 - 1994年
第77代:1994年 |style="width:30%"|次代:
羽田孜(臨時代理)
井出正一 テンプレート:S-ppo |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
新設 |style="width:40%; text-align:center"|自由連合総裁
初代:1995年 |style="width:30%"|次代:
最終 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
永末英一 |style="width:40%; text-align:center"|民社党委員長
第7代:1990年 - 1994年 |style="width:30%"|次代:
米沢隆 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
塚本三郎 |style="width:40%; text-align:center"|民社党書記長
第6代:1985年 - 1989年 |style="width:30%"|次代:
米沢隆 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
河村勝 |style="width:40%; text-align:center"|民社党政策審議会長
第4代:1977年 - 1985年 |style="width:30%"|次代:
米沢隆

  1. 転送 Template:End

テンプレート:厚生労働大臣