吉田喜重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年6月18日 (水) 00:10時点における124.102.53.97 (トーク)による版 (+{{存命人物の出典明記}})
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:ActorActress 吉田 喜重(よしだ よししげ、1933年2月16日 - )は日本の映画監督。名は「きじゅう」と音読みされることが多い。

略歴

1933年福井県福井市佐佳枝下町で生まれる。1945年に順化小学校を卒業後、旧制の県立福井中学に入学。同年8月、福井大空襲で家が焼失する。1947年春に一家で東京へ転居し、田園調布の自宅から都立城南中学に通う。同校は吉田の在学中、学制改革により城南高校となる。この頃、フランス語を習うためアテネ・フランセへ通い、フランス映画をよく観ていた。またNHKラジオに詩を投稿して賞金を貰ったり、演劇部には入らなかったものの、自作の演劇脚本を文化祭で上演するなど、早くも高校時代から才能を顕していた。

1951年東京大学文学部仏文科入学。哲学科志望であったが、吉田を外交官にしたい父の意向に従い仏文科に進む。同科には矢島翠宮川淳石堂淑朗種村季弘らが在学していた。

1955年、大学卒業とともに石堂と松竹大船撮影所に入社。木下惠介などの助監督を経て、1960年に『ろくでなし』で監督デビュー。大島渚篠田正浩らとともに松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として活躍する[1]。『秋津温泉』(1962年)、『嵐を呼ぶ十八人』(1963年)などの映画を手がける[2]1964年女優岡田茉莉子と結婚。新婚旅行中に、監督6作目の『日本脱出』(1964)のラストシーンを松竹により無断でカットされたため退社。1966年に独立プロの「現代映画社」を設立する。

1973年の『戒厳令』を最後に映画界を離れ、テレビドキュメンタリーを数多く制作、1986年の劇映画『人間の約束』により、13年ぶりに映画監督として復帰。1988年の『嵐が丘』は自身初となるカンヌ国際映画祭のコンペティション部門への出品を果たし、一部の批評家から高い評価を受ける。[3]

1999年、著書『小津安二郎の反映画』で芸術選奨文部大臣賞。2003年にフランス政府より芸術文化勲章オフィシエ章を贈られる。

2003年、15年ぶりの監督作となる『鏡の女たち』を発表。

2008年、オムニバス映画『ウェルカム・トゥ・サンパウロ』に参加する[4]

監督作品

長編映画

短編映画

テレビ

  • 美の美(1974年 - 1977年)
  • 吉田喜重が語る小津安二郎の映画世界(1993年)
  • 夢のシネマ 東京の夢(1995年)

著書

  • 自己否定の論理・想像力による変身(1970年、 三一書房
  • 見ることのアナーキズム 吉田喜重映像論集(1971年、仮面社
  • メヒコ 歓ばしき隠喩 旅とトポスの精神史(1984年、岩波書店
  • 小津安二郎の反映画(1998年、岩波書店、2011年、岩波現代文庫

参考文献

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

外部リンク

  • 勝田友己によるインタビュー、山田洋次「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (4)」 『毎日新聞』 2010年1月25日、13版、5面。
  • テンプレート:Cite web
  • 樋口泰人『カンヌ映画祭の50年』 284ページ。
  • テンプレート:Cite web