ミック・ジャガー

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マイケル・フィリップ・ジャガー(Sir Michael Philip Jagger、1943年7月26日 - )は、イギリスミュージシャン俳優。「ミック(Mick)」の愛称で知られる。イギリスのロックバンドローリング・ストーンズのボーカルとして世界的に有名。ストーンズのギタリストであるキース・リチャーズと「ジャガー/リチャーズ」の名義で数々のヒット曲を生み出した。また、1974年からはキースと「グリマー・ツインズ」というプロデュース・ユニットを組みセルフ・プロデュースを行っている。身長173cm。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第16位。

イギリスの音楽雑誌「Q誌の選ぶ歴代の偉大な100人のシンガー」において第9位[1]

人物

ジョー及びエヴァ・ジャガーの息子としてケント州ダートフォードで生まれる。後のローリング・ストーンズギタリストとなるキース・リチャーズとは幼い頃より知り合いだった。しかし、それは互いに顔と名前を知っている程度のもので、友人同士だったというわけではない。10代でロックに目覚め、「リトル・ボーイ・ブルー・アンド・ザ・ブルー・ボーイズ」というバンドで活動した。18歳の頃に、ダートフォード駅キース・リチャーズと出会う。キースによれば、この時ミックはマディ・ウォーターズチャック・ベリーのレコードを所持して佇んでいたという。この再会によりお互いがロックンロールR&Bに興味があることを知り、一緒に活動を始めるきっかけとなり、後にローリング・ストーンズの活動へと繋がっていくことになる。二人はその後ロンドンに移り住み、1962年4月にブライアン・ジョーンズと出会い、そのスライド・ギターに衝撃を受けた。こうして彼らはバンドを結成し6月頃に初めてローリング・ストーンズと名乗るようになった。その後ローリング・ストーンズのデビュー・シングル「Come On」は、1963年6月7日にリリースされプロ・デビューした。1968年からは俳優、監督業も行うようになっており、いくつかの映画に俳優として、あるいは監督として映画を製作している。

ストーンズとしてデビューしてからは、21世紀に入った現在でも世界の第一線で活動を続けている。元々黒人音楽から強い影響を受けており、ここをベースにしたサウンドを根ざしているがその反面、新し物好きでもある。最新の機材や技術はもちろんのこと、流行の音楽などに対しても敏感。それらは60年代から現在まで一貫していて、ストーンズは当然のこと、ソロ・ワークスなどでもいかんなく発揮されている。このため時にファンからは否定的に捉われがちになることもあるが、そうした感性からは代表的な成功例も少なくない。当時のディスコを意識して書かれた代表曲「ミス・ユー」や、これまでのロックからは考えられなかったサンバ調の「悪魔を憐れむ歌」などが特に著明である。これらは名義こそジャガー/リチャーズになっているものの、相方であるキースのインタビューなどからミックのアイディアだとされる。

所謂、健康オタクとしても知られる。ミックが20代から30代の頃、とりわけ60年代から70年代にかけてロック界では多くのスターが喫煙する様子が写真や映像で確認できるが、その頃から念入りな体力トレーニングを行っていた。60年代の頃までは喫煙家であった。喫煙が健康に害することを知っていながらタバコを吸っていたといい、事実、喫煙する様子を撮った映像などもあり、場合によってはドラッグなども嗜むこともあった。しかしある時から、それらがパフォーマンスに影響することに気付いて自発的に禁煙家に転向、ドラッグも一切断つなど、現在至るまで数十年に渡って健康志向となっている。それらはソロ・アルバム『ゴッデス・イン・ザ・ドアウェイ』のプロモーションの一環で自宅の映像が流れた際、いくつかの健康器具などが見られる他、初来日の際には皇居周辺を含む、ランニングを行っている姿がテレビで取り上げられるなど、いくつかのメディアや映像などから窺える。ミックが健康志向に根ざしたのは、父ジョー・ジャガーが体育教師を務めていた影響だといわれる。

また、既に中退していたキースと違い、奨学金を貰ってロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに通っていたミックは、ストーンズとしてデビューした後もしばらくはプロ・ミュージシャンになるか国税局に就職するか随分迷いがあったという。こうしたことが背景となっているためかミックは、ストーンズ自身の独自レーベル「ローリング・ストーンズ・レーベル」を立ち上げた以降、バンドの運営に大きく関与している。バンドのギャランティはもちろんのこと、印税配分の管理など 経営者としての資質を垣間見せている。他にも株取引なども行っているといわれる。2010年現在、アメリカ合衆国の反捕鯨団体シーシェパードの後援者として名を連ねている[2]

FIFAワールドカップにおいて、「ミックが応援したチームは負ける」とのジンクスがあり、2010年南アフリカ大会では、応援したイングランドアメリカブラジルが相次いで負け、2014年ブラジル大会でも、ザ・ローリング・ストーンズの公演で「勝つだろう」と口にしたポルトガルイタリアがグループリーグ敗退。さらには試合当日に自身のTwitterに応援メッセージを残したイングランドも敗れ、スタジアムで観戦しなくても、ミックがコメントしただけで負けるとまで言われるようになっていた。ブラジル出身の妻と息子とともに、スタジアムで準決勝のブラジル対ドイツ戦を観戦した際には、ジンクスを気にしてか、ブラジルのシャツは着ておらず、イングランド・チームのキャップをかぶっており、ブラジル・サポーターがスタジアムにミックの写真パネルに「Go Germany!」と吹き出しが付いた「厄除け」のパネルを持ち込むことまでしていたものの、ブラジルは1-7という歴史的大敗を喫し、ブラジルのTV局はミック・ジャガーが応援したチームは必ず敗北するという「最大の悪運のジンクスがある」と紹介した上で、今回のブラジル大敗もまたそのジンクスの犠牲となったと報じた[3][4]

概要

ストーンズのメイン・クリエイターの一人であるキースとともに、「ジャガー/リチャーズ」として数多くの楽曲を生み出している。ミックが初めてオリジナルを書いたのは1964年のことだといわれていて、ビートルズや他のオリジナル楽曲で活動するミュージシャンなどの影響により、オリジナル楽曲を中心に制作するようになっていった。当時のストーンズは初めカヴァー曲を中心に活動し、あるいはレコーディングに及んでいたため、オリジナル楽曲はまだなかったが、すでにビートルズの大きな成功を目の当たりにしていた彼らは、成功するにはオリジナル楽曲の必要性を迫られていた。このために、当時のマネージャーであったアンドリュー・オールダムによってキースとともにキッチンに閉じ込められるという信じられないないようなエピソードもある。この中でオリジナルといえるような楽曲が数曲できあがった。その中に「テル・ミー」や当時ミックの恋人であったマリアンヌ・フェイスフルに提供しヒットし、さらには自身たちでレコーディングしなおされヒットとなった「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」などが含まれていた。その後、「サティスファクション」や「一人ぼっちの世界」、「黒くぬれ!」などの世界的なヒット曲を生み出していき、ジャガー/リチャーズレノン=マッカートニーに並ぶ新しいソングライティング・チームとして成長していった。

ストーンズとして多忙ながらも順調な活動を続けてきたミックであるが、1967年からはその風向きが変わりつつあった。バンドメイトであるキースとブライアンの二人とともに麻薬所持の疑いで逮捕され、活動の一旦停止を余儀なくされる。このため毎年行われていたツアーなどは一切行われず、公判にて決着がつくまでイギリス国内に留まることを裁判所より命令が下った。1968年5月、ミックは映画に出演することを発表。この映画『青春の罠』(Performance)は同年7月にクランク・インし、1970年に公開された。この作品は裁判のためにバンド活動ができなくなったミックがその機会に、かねてより興味のあった映画業界にも挑戦したいという意向の表れだった。以降ミックは映画業界で俳優、監督業にも手を伸ばすようになった。こうした経緯から同作のサウンドトラックに提供された楽曲「メモ・フロム・ターナー」は、ジャガー初のソロ・シングルとしてもリリースされた。続けて1969年の5月には映画『太陽の果てに青春を』(Ned Kelly)への出演を発表。7月にオーストラリアメルボルンでロケを行った。同作で彼は西部の殺し屋役を演じたが、映画の出来に関しては酷評している。また、ロケのため、同月のブライアンの死去に際して葬儀に行くことが出来なかった。彼はこのほかにも数々の映画に出演しているが、1997年の 『ベント/堕ちた饗宴』(Bent)では女装の歌手を演じた。

1971年5月12日、ミックはニカラグア人のガールフレンド、ビアンカ・ペレス・モラ・マシアスと結婚した。ビアンカは10月21日に娘のジェイドを出産した。1973年6月に歌手のマーシャ・ハントが1970年に生まれた彼女の娘カリスの父親がミックであることをロンドンのマリルボーン下級裁判所に申し立てた。カリスはミックの娘であることが1979年に判明し、同年1月、ミックに対し、毎週1,500ドルを養育費としてマーシャ・ハントに支払うようロサンゼルスの裁判所が命令を下した。その後ミックとビアンカは1979年11月に離婚、ミックは1977年頃からアメリカ人モデルのジェリー・ホールと交際を始め、1984年3月2日に娘のエリザベス・スカーレット・ジャガーが誕生、1985年8月28日には息子のジェームズ・リロイ・オーガスティンが誕生した。

1980年代に入りミックは、1983年頃までストーンズを中心に活動したが1984年からは本格的なソロ活動が開始された。その最初にミックはマイケル・ジャクソンとともにリード・ボーカルを担当したジャクソンズの楽曲「ステイト・オブ・ショック」をリリース。翌1985年、ビル・ラズウェルナイル・ロジャースのプロデュースにより制作された初のソロ・アルバム『シーズ・ザ・ボス』を発表した。同年、デヴィッド・ボウイとのデュエットによるチャリティ・シングル「ダンシング・イン・ザ・ストリート」も発表。こうした一連の活動状況にキースは強く反発し、ストーンズとして主だった活動は1986年の『ダーティ・ワーク』を除いて1989年まで行われなくなった。こうした反面で、ミックは2ndソロ・アルバム『プリミティヴ・クール』を1987年にリリースし、大々的にツアーも行うことを発表した。これにより、ミックは初めて日本の地を踏んだ。このときバンドに参加したリサ・フィッシャーバーナード・ファウラーの二人は、以降ストーンズの活動にも関わっていくことになる。

1989年、ミックはこれまで停滞していたストーンズの活動を再開させた。アルバム・リリースとその中からのシングルカット、大規模なワールド・ツーを行い、その一環でこれまで実現していなかったストーンズの初来日公演が実現した。このツアーからミックはストーンズの活動を中心にしながら、それを挟む形でソロ活動を展開し1993年に『ワンダーリング・スピリット』、2001年にレニー・クラヴィッツプロデューサーに迎えて制作された『ゴッデス・イン・ザ・ドアウェイ』といったアルバムをリリースした。

ミックは2003年12月12日に、「ポピュラー音楽に対する貢献」で ナイトに叙勲された。この授与はすでにこの数年前より当時のトニー・ブレア首相からナイト授与の要請があったことが明かされている。ミックはストーンズやソロ活動を理由にこれを断っていたが、このとき(2003年当時)首相より「ローリング・ストーンズが40年という前人未到の活動を続ける今、あなた以上にこれ(ナイトの称号)を得るに相応しい人物はいない」といわれたという。しかし、ミックの受章に対しキース・リチャーズは「俺は勲章の授与なんて馬鹿げたことだと思ったよ。そんなことはストーンズらしくないぜ。だろ?俺はくそ忌々しい冠を付けてきざなアーミンの白い毛皮を羽織った誰かさんとステージに上がるなんてゴメンだね。俺はミックに言ってやったよ。『そいつは糞食らえの無価値な名誉だ』ってね」[1]とコメントし、これに対してミックは「キースはアイスクリームが欲しくて泣き叫ぶ子供。彼も本当は欲しいんだ」と反論している。2005年にストーンズのアルバム『ア・ビガー・バン』のレコーディングやそれに続くツアーのリハーサルを行う傍ら、ミックはその後も関係が続く元ユーリズミックスのデイヴ・スチュワートとともに映画「アルフィー」の音楽を手がけ、2007年には「ア・ビガー・バン・ツアー」の終了に前後して、自身初となるソロ・ベスト・アルバム『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』を発表する。これにはそれまでソロ・アルバムには未収録だった他のアーティストとのデュエットしたものやなどが収められている。

2011年にはキャリア50年目にして初の別バンド「スーパーヘヴィ」を結成。ジャガーの他に、先の映画「アルフィー」の制作の際に関わったデイヴ・ステュアートと、ジョス・ストーンダミアン・マーリーボブ・マーリーの息子)、A.R.ラフマーンという5人組。9月21日にアルバム『スーパーヘヴィ』をリリース。さらにこの年、マルーン5がミックを題材にした楽曲「ムーブス・ライク・ジャガー(Moves like Jagger)」をリリースし、ビルボード1位を獲得している。これに制作されたPVでは、60年代から00年代までミックがライヴで着ていた衣装を再現したものを、数多くのモデルや俳優が纏い、動きもミックの真似をするというユニークなものとなっている。制作された当初のPVを閲覧した際、ミックが「自分の映像がフューチャーされすぎているので、もっと減らしたほうが良い」とマルーン5側にアドバイスしたため。

2014年現在、ストーンズのワールド・ツアーを行っている。しかし三月、日本公演後行われるはずだったオーストラリアに到着後、ミックの恋人で良きビジネス・パートナーでもあったローレン・スコットが死去するという報告を聞いて、ミックは大変なショックを受け茫然自失となった。メンバーは各自が「今はミックを支える時だ」と声明を出し、これに伴って予定されていたオーストラリアニュージーランド公演は延期されることが発表された。2001年頃にローレンと出会ったミックはその後付き合うようになったといい、その後はメンバーの衣装も手がけるようになっていた。

日本公演

1972年に、ストーンズ初の日本公演が翌年1月に日本武道館で行われることが発表され、チケット販売も行われたが、ミックが1969年の大麻不法所持による有罪判決が原因で入国拒否され、中止となった。日本のファンはストーンズの来日公演を17年後の1990年まで、日本武道館での公演は30年後の2003年まで待たなければならなかった。

また、ミック自身はストーンズとして来日する前に、ソロ・アルバム『プリミティヴ・クール』(Primitive Cool)を引っ提げ、1988年3月に単独で来日し、東京大阪名古屋でコンサートを行った。『プリミティヴ・クール』にも参加したジェフ・ベックが帯同するという噂も流れたが、ジェフがこの話を断ったため、ジョー・サトリアーニがリード・ギターを担当。日本人パーカショニストのツトム・ヤマシタが全公演、また東京公演の2日目ではティナ・ターナーがゲスト出演した。なお、このコンサートはフジテレビが主催していたが、テレビ朝日の『ベストヒットUSA』にゲスト出演してしまったため、ミック側の「取材は1メディア1社」の方針でフジテレビの番組には、27日に放送された『Mick Jagger in Tokyo Dome』の冒頭でVTR出演するにとどまった。


SUNTORY D・R・Y Beer Live "Mick Jagger in Japan."」(※全公演SS席6500円、S席5000円)

3月15日・16日・18日・28日 大阪城ホール(28日は、19日に予定だった公演の本人の急病(風邪)による延期公演)
3月22日・23日 東京ドーム
3月25日・26日 名古屋市国際展示場(追加公演)


メンバー
ミック・ジャガー - ボーカルハーモニカギター
ジョー・サトリアーニ- ギター
ジミー・リップ - ギター
ダグ・ウィンビッシュ - ベース
サイモン・フィリップス - ドラムス
フィル・アシュリー - キーボード
リチャード・コットル - キーボード、サックス
シビル・スコビー - バッキング・ボーカル
バーナード・ファウラー - バッキング・ボーカル
リンダ・モーラン - バッキング・ボーカル
リサ・フィッシャー - バッキング・ボーカル
ツトム・ヤマシタ - ゲスト・パーカッション
ティナ・ターナー - ゲスト・ボーカル(東京公演2日目のみ)

金銭

2007年4月、米経済誌フォーブス誌が「過去25年間でもっとも高くついたセレブリティの離婚」のランキングを発表し、ミック・ジャガーとジェリー・ホールの離婚にともなう財産分与金が1500~2500万ドルで10位にランクインした[5]

2009年4月、英サンデー・タイムズ紙が「英音楽界での長者番付」を発表し、推定資産が1億9000万ポンドだったことがわかった。ミック・ジャガーは経済危機の影響で16%の資産を失った[6]

2009年11月、カートゥーン・ネットワークが「未来のイギリスのトップセレブ」のランキングを発表し、ミック・ジャガーの娘のリジー・ジャガーの20年後の推定総資産額が3億1000万ポンド(日本円で約462億円)で5位にランクインした。このランキングはセレブの子どもたちの20年後の総資産額を推定して作られたものでスター性、推定相続額、才能、カメラ好き度、ショービジネス性などのいくつかのカテゴリーの総合で順位が決まる[7]

2011年5月、英サンデー・タイムズ紙が「英音楽界での長者番付」を発表し、推定資産が1億9000万ポンドで8位にランクインした[8]

ソロワークス

アルバム

映画

脚注

  1. テンプレート:Cite web
  2. テンプレート:Cite news
  3. テンプレート:Cite news
  4. テンプレート:Cite news
  5. http://eiga.com/news/20070417/4/
  6. http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-37687720090424
  7. http://www.cinematoday.jp/page/N0020926
  8. http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-20940020110505

外部リンク

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