ジェームス・カーティス・ヘボン

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ファイル:Statue James Curtis Hepburn.jpg
ヘボンの胸像(明治学院大学)
ファイル:Sokoji 01.jpg
施療所を開いた宗興寺
(中央に記念碑がある)
ファイル:Hepburn Hall 2014.JPG
横浜市立大学医学部ヘボンホール

ジェームス・カーティス・ヘボンテンプレート:Lang-en1815年3月13日 - 1911年9月21日)は、米国長老派教会系医療伝道宣教師であり、 ヘボン式ローマ字の創始者。医師ペンシルベニア州ミルトン出身。

幕末に訪日し、横浜で医療活動を行った。宣教師デュアン・シモンズと共に、横浜の近代医学の基礎を築いたといわれる。その功績を称えて、横浜市立大学医学部にはヘボンの名を冠した講堂「ヘボンホール」がある。[1] また、東京明治学院(現在の明治学院高等学校明治学院大学)を創設し、初代総理に就任。日本の教育にも貢献した。

来歴

「ヘボン」という名前

  • 「ヘボン」は、彼自身が日本人向けに使った名前である。他に「平文」の表記を使用していた。
    • アカデミー賞女優キャサリン・ヘプバーンはヘボンと同じHepburnの一族である[9]
    • 『ヘボンの生涯と日本語』[10]にジェームス・カーティス・ヘップバーンはテノールのよく響く声で、自ら「ヘボンでござります」と名乗っていた、という記述がある。
    • 慶応3年(1867年)に出版された『和英語林集成』初版の表紙に「『美国平文』編訳」と見える[11]
    • 1892年(明治25年)に出版された『聖書辞典』の表紙にも「平文」と見える[12]
    • 『和英英和林語集成』第5版1894(明治27)年発行の「501/509」に奥付に書かれている著作者は「ゼー・シー・ヘボン」となっている[13]
  • 日本語で「ヘボン」が使われている。
    • ヘボンが宿舎にした成仏寺の門前の名主源七による『御用留』(1861年7月頃)に「ヘボン」(ヘホン)と書かれている[14]
    • 1872年(明治5年)に出版された『新約聖書馬可傳福音書』[15]の表紙裏を見ると「この書はヘボン訳なり」と注記がある。
    • 1888(明治21)年4月19日付の右の郵便報知新聞の新聞広告で、『和英英和語林集成 第4版』が「博士ヘボン氏著」と紹介されている[16]
  • James Curtis Hepburnが創設したり、創立に深く関わった学校や教会は現在でも「ヘボン」表記を大事に伝えている。
  • James Curtis Hepburnについての研究や解説で「ヘボン」を使っており、書名・論文名にも採用されている。

一方、"James Curtis" の発音・表記は、変遷し、混乱してきたと思われる。Jamesについてはジェームズを、Curtisについてはカーチスを参照のこと。

「ヘボン」の祖先

Hepburnの名は、HebronまたはHebburnという町に由来する[17]。またヘボンの遠い祖先は、スコットランドのボスウェル伯に連なるという。そして近い祖先は、イギリス国教による長老派迫害を逃れてサムエル・ヘップバーン(曾祖父。父と同名)が1773年アメリカへ渡ったのが始まりで、子ジェームス、孫サムエルと続き、サムエルの長男がジェームス・カーティス・ヘボンである[18]

ヘボンの日本語

  • 来日前(1841年シンガポール滞在中)にカール・ギュツラフ著『約翰福音之伝(ヨハネふくいんのでん)』を手にいれ、1859年航海中には『日本語文法書』とともに利用し学習した[19]マカオサミュエル・ウィリアムズ宅に滞在して簡単な日本語を習い、来日後「コレハナンデスカ?」と聞いてまわり、メモを取った[20]
  • 神奈川到着前にしばらく滞在していた長崎では、数度上陸し、かなり多く英語と日本語を対照してことばをあつめ、ちょっとした会話は出来るがまだ貧弱だ、としている。[21]
  • 1881(明治14)年、頼山陽の『日本外史』の大部分を原文のままで読んだ。[22]

ヘボンと医学

  • 日本に来て、医療を武器に信用を獲得していった。専門は眼科で、当時眼病が多かった日本で名声を博したという。横浜の近代医学の歴史はヘボン診療所によって始まったといわれる。日本人の弟子を取って教育していたが、奉行所の嫌がらせもあり、診療所は閉鎖になった。博士のラウリー博士宛ての手紙によると、計3500人の患者に処方箋を書き、瘢痕性内反の手術30回、翼状片の手術3回、眼球摘出1回、脳水腫の手術5回、背中のおでき切開1回、白内障の手術13回、痔ろうの手術6回、直腸炎1回、チフスの治療3回を行った。白内障の手術も1回を除いて皆うまくいったという(1861年9月8日の手紙)。また、名優澤村田之助脱疽を起こした足を切断する手術もしている。その時は麻酔剤を使っている。一度目の手術は慶応3年(1867年)であるが、その後も脱疽の進展にともない切断を行っている(横浜毎日新聞1874,6,11日付)。専門が眼科であることを考慮すると足の切断術は見事であると荒井保男は述べている。[23]

登場作品

  • JIN-仁-』-21世紀からタイムスリップしたきた脳外科医の南方仁がヘボンに会い英語で会話する。

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

参考文献

外部リンク

テンプレート:日本キリスト教史

テンプレート:明治時代の来日宣教師
  1. 福浦キャンパス|横浜市立大学
  2. 高谷道男『ヘボンの手紙』10月13日付け長崎発の後半に10月20日神奈川という部分があり、10月17日月曜夜到着とある。p.56
  3. ヘボン塾の出身者には、高橋是清林董益田孝など明治期日本で活躍した多くの人材がいる。
  4. 明治学院大学図書館 - 『和英語林集成』デジタルアーカイブス
  5. 美国(中国語版)
  6. 明治学院大学図書館 - 『和英語林集成』デジタルアーカイブス 『和英語林集成』各版体裁
  7. 明治学院出身者については明治学院大学の人物一覧を参照されたい。
  8. 学長に相当
  9. 杉田幸子 『横浜のヘボン先生』 いのちのことば社、1999年。および同書の改訂増補版、杉田幸子 『ヘボン博士の愛した日本』 いのちのことば社フォレストブックス、2006年に記載されているが、一次資料不明
  10. 望月洋子『ヘボンの生涯と日本語』新潮社、15ページ
  11. 企画・連載 : 神奈川 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)(19)和英辞典と翻訳聖書の刊行
  12. 横浜開港150周年 みんなでつくる 横濱写真アルバム
  13. 本文|近代デジタルライブラリー
  14. 公文書館だより 第3号 : 神奈川県
  15. ヘボン・ブラウン訳 新約聖書馬可傳福音書|関西学院と聖書
  16. 綺堂作品紀聞 その2 綺堂作品とその実証
  17. en:Hepburn (surname)
  18. 1881年3月16日付け、W.E.グリフィス宛書簡、高谷道男編著『ヘボン書簡集』岩波書店、1959年。292ページ以降。
  19. 高谷道男『ヘボンの手紙』p.39。同所に『日本語文法書』は特定できない、とある。
  20. 望月洋子『ヘボンの生涯と日本語』P33~34
  21. 高谷道男『ヘボンの手紙』p.56。
  22. 1881年3月16日付け、W.E.グリフィス宛書簡、高谷道男『ヘボン書簡集』岩波書店。1959年。p.301。
  23. 荒井保男『日本近代医学の黎明 横浜医療事始め』(中央公論新社、2011年)p.44