シュコダ

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シュコダ・オート株式会社(Škoda auto a.s.)は、チェコの自動車メーカーで、本社は中央ボヘミア州ムラダー・ボレスラフ(Mladá Boleslav)。ドイツフォルクスワーゲン社の子会社で、チェコ国内自動車生産のシェア1位を占める。

概要

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シュコダ633(1931年)
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シュコダ・オクタヴィア(旧・1959年)
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シュコダ・ファヴォリット(1987–1995年)

オーストリア=ハンガリー帝国領時代の1895年、書籍商のヴァーツラフ・クレメント(Václav Klement)と機械工のヴァーツラフ・ラウリン(Václav Laurin)が自転車メーカーのラウリン&クレメント(Laurin&Klement)社として創業した。当初「スラヴィア」(Slavia)ブランドで自転車を生産し、まもなく補助エンジン付き自転車も発売。1899年にはオートバイの生産を開始した。1901年に同社初の自動車「ラウリン&クレメント」を製造。1907年株式会社化し、1912年にはリベレツの自動車メーカーレイヒェンベルガー自動車工業(RAF : Reichenberger Automobilfabrik)社を買収。第一次世界大戦の特需で急成長し、オーストリア=ハンガリー国内最大の自動車メーカーに成長した。

ラウリン&クレメント社は大戦敗戦によるオーストリア=ハンガリー帝国瓦解・会社所在地を含んだチェコスロバキア共和国成立後も、乗用車やトラック、航空機用エンジンの製造を手がけて好調な業績を維持したが、1924年に大規模な工場火災が発生して経営困難に陥り、翌1925年、特殊鋼や鉄道車両・兵器等の製造工場、鉱山、醸造所などを経営する国内大資本のシュコダ工業株式会社(Škodovy závody, a.s.)に買収された。自転車とオートバイの製造はこのとき取りやめた。

買収に際し、創業者の1人ヴァーツラフ・ラウリンは技師長として迎え入れられ、開発中だったラウリン&クレメント360をシュコダ360として1926年に発表。以後「シュコダ」ブランドで自動車を製造した。また1925年から1928年にかけ、シュコダが航空用エンジンをライセンス生産していたイスパノ・スイザのフランス本社との提携により、当時、高性能・高品質で知られた100HP級の最高級車「イスパノ・スイザH6B」を「シュコダ・イスパノ・スイザ」として150台以上生産した。

1929年世界恐慌で経営に打撃を受けたものの、新車種が市場に支持されて経営を立て直した。ナチス・ドイツによるチェコスロバキア侵攻後、ドイツの重工業メーカー、ヘルマン・ゲーリング工業の傘下に置かれ、第二次世界大戦中は、ヤブロネツ・ナド・ニソウとムニホヴェ・フラディシュチの旧RAF社工場で兵器と不整地用車両の製造を行った。これらの工場は1951年に独立し、バス・トラック専門メーカーの国営会社リベレツ自動車工業(LIAZ : n.p. Liberecké automobilové závody、2003年1月廃業)となった。

チェコスロバキア共和国は、終戦直後の1945年から戦後復興を目的に国内主要重工業企業の国有化を進めた。シュコダ工業は社会主義政権成立後の1948年に国有化が行われ、自動車製造部門が自動車工業国営会社(AZNP : Automobilové závody, n.p.)に、部品製造部門が国営会社シュコダ・プルゼニ(n.p. Škoda Plzeň)に分離された。AZNP社は先に国有化された自動車メーカー、タトラ国営会社が開発した乗用車、タトラT600「タトラプラン」の製造を行い、その後行われた国内の自動車生産体制再編で、タトラ社が高級車を、AZNP社が大衆車を開発・生産する形に整理された。

AZNP社の乗用車は引き続き「シュコダ」ブランドで生産され、1950年代後半から60年代にかけては、国際ラリーで優秀な成績をおさめ西側市場でも注目されたバックボーンフレーム車の「オクタヴィア」や、リアエンジンの小型車である「1000MB」「100/110」「105/120/125」などを開発し、社会主義体制下の不利な条件にもかかわらず、一定の国際的競争力を維持し続けた。その後、主要市場である共産圏諸国の経済低迷にともなってAZNP社の開発・生産力も落ち、70年代に開発されたモデルを90年代まで製造し続ける状態となった。一方でペレストロイカ開始後の1987年には、イタリアベルトーネ社設計のFF車「ファヴォリット」(Favorit)を発表し、シュコダ車の健在ぶりをアピールした。

1989年体制転換後、チェコスロバキア連邦政府は強力な外国資本を導入してAZNP社を民営化する方針を決めた。このときAZNP社ではフランスルノー社の東欧向け低価格車「ルノー・トゥインゴ」などの受託生産を行う方向で調整が進められていたが、ドイツのフォルクスワーゲン社が割って入る形で提携にこぎ着け、1991年にフォルクスワーゲン・グループの4番目のブランド、シュコダ・オート株式会社として民営化された。

民営化後、フォルクスワーゲン社は自社の技術・デザインをシュコダ社に持ち込んで大幅な近代化を進め、欧州市場をターゲットにフォルクスワーゲン車をベースにした「オクタヴィア」「ファビア」を発表。旧東欧企業のマイナスイメージを払拭する宣伝活動も積極的に行って成果をおさめている。現在はセルビアボスニアヘルツェゴビナインドにも組立工場を持ち、フォルクスワーゲングループの販社によるオーストラリア市場への進出も図っている。2008年には累計販売台数が67万4530台に達した。

モータースポーツ

ファイル:Jani Paasonen - 2004 Rally Finland 3.jpg
2004年ラリーフィンランドでのファビアWRC

社会主義時代の1960年代から積極的に国際ラリーに100シリーズなどで出場していたシュコダは、FIA世界ラリー選手権(WRC)に1975年、130RSのベースモデル(110R)の1.1Lエンジンを1.3LへスープアップしGr.Aマシンとして投入。総合優勝には届かないものの、クラス優勝圏内を席巻し、その"東側"からやってきた流麗なスタイリングのラリーカーは西側諸国でも大きな人気を博していった[1]。その後これを180RS、200RSへと進化させていく。1989年にファヴォリットを投入。1.3Lの小排気量ながら、1994年には2リッターワールドカップを獲得する。翌1995年には、フェリツィアをキットカー化した、フェリツィア・キットカーを投入。1999年にはオクタヴィアWRCを投入。オクタヴィアWRCの最高成績は2001年サファリラリーの3位。2003年後半からはオクタヴィアより小さいファビアWRCで参戦し、2004年ラリーオーストラリアではリタイアまで2位をキープした。同年にはラリージャパンにもワークスとして2台が初出場した。

ワークスチームとしてのシュコダは2005年でWRCから撤退し、2006年から2008年、セミオフィシャルのレッドブル・シュコダチームとして引き続きファビアWRCで参戦した。同年のラリーカタルーニャで5位、2007年のラリー・ドイチェランドでも5位の好成績をおさめている。

2009年からはプロダクションカー世界ラリー選手権(PWRC)と、FIA統括のもう1つのラリー選手権、インターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ(IRC)にマニュファクチャラー登録。それぞれ新開発のファビアSuper2000で参戦した。PWRCでは開幕戦のラリー・ノルウェーで初優勝。IRCでもラリー・ロシアでの初優勝を皮切りに毎回上位に入賞、かつてない成功を収めている。

民営化後の車種一覧

関連項目

脚注

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外部リンク

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  1. 三栄書房「ラリー&クラシックス Vol.4 ラリーモンテカルロ 100年の記憶」内「ラリーモンテカルロ・ヒストリック マシン総覧」より抜粋、参考。
  2. テンプレート:Cite web