ウラルトゥ

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テンプレート:基礎情報 過去の国 ウラルトゥ紀元前9世紀ごろから紀元前585年までアナトリアに存在した王国。その版図は、現在のトルコ東部のヴァン湖周辺を中心に、メソポタミア北部からコーカサス南部にわたった。

名称

「ウラルトゥ」という呼称は、同時期に覇を競ったアッシリア人たちが呼んだ名である。王国は、ウラルトゥ語ビアインリ(Biainli)と呼ばれ、これは「ヴァン」(Van)の語源となった。また、「ウラルトゥ」の名はアララト山(Ararat)とも関係づけられる。

歴史

ファイル:Urartu743.png
ウラルトゥ王国の最大版図(黄色)(紀元前743年頃)。緑色はアッシリア帝国の版図

前史

紀元前1250年ごろのアッシリアの文書は、「ウルアトリ(Uruatri)」または「ナイリ(Nairi)」と呼ばれる民族とのゆるやかな同盟関係に言及している。現在知られているウラルトゥについての情報のほとんどは、アッシリアの文書から得られたものである。

黎明期

その民族は、紀元前860年から紀元前830年のあいだに、王アラマルティプリの下で黎明期を迎え、王国を形成した。首都は、初期の頃にはテンプレート:仮リンクに置かれていた。

拡大期

その息子サルドゥリ1世の下で、紀元前832年頃に現在のヴァンのあたりに遷都しテンプレート:仮リンク(Tushpa)と呼ばれた。ウラルトゥ王国は、最盛期にはアルメニア高原の全域を含み、東は現在のタブリーズを越え、南はティグリス川、西はユーフラテス川の上流域にまで至った。

衰退期・滅亡

紀元前714年には、ウラルトゥの王ルサ1世(Rusa)がサルゴン2世率いるアッシリア軍に大敗した。この戦い以降、ウラルトゥ王国はアッシリアと幾度か戦った(テンプレート:仮リンク紀元前714年 - 紀元前585年)。ウラルトゥ王国は、キンメリア人やアッシリアの攻撃に苦しんだ。紀元前585年スキタイ人の攻撃によってウラルトゥ王国は滅んだ。アケメネス朝の成立後、この地にアルメニア人が定住した(テンプレート:仮リンク紀元前553年 - 紀元前331年)。

発掘

紀元後5世紀ごろ以降、ウラルトゥの存在は忘れ去られていたが、18世紀19世紀の発掘によって再発見された。

言語系統

ウラルトゥ語は、テンプレート:仮リンクに分類される膠着語である。フルリ人が築いたミタンニ王国(紀元前1500年頃 - 紀元前1270年頃)で使用されたフルリ語と近縁関係にある。

歴代国王

ファイル:Museum of Anatolian Civilizations066.jpg
ケフ・カレシ出土の礎石(ルサ2世時代)。アナトリア文明博物館(アンカラ)蔵

黎明期

拡大期

衰退期

参考文献

関連項目

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