メディア王国

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メディア王国(メディアおうこく、Μηδία, Media、紀元前715年頃 - 紀元前550年頃)は、2013年現在のイラン北西部を中心に広がっていたメディア人王国である。首都はエクバタナで、アッシリア紀元前612年頃崩壊し、その後影響力を拡大したエジプトリュディア新バビロニアカルデア)とともに当時の大国となった。

概要

イラン高原北西部の地方名として「メディア」という語が使われた。メディア人に関する情報は非常に限られている上、後世ペルシア人との同化が進み混同されて記録されたことと、メディア人が記した文献が今のところ発見されていないために、その正確な姿を復元することは困難である。

アッシリアを滅ぼした後しばらくの間強勢を誇ったが、前550年頃属国だったアケメネス朝キュロス2世によって滅ぼされた。

歴史

テンプレート:イランの歴史

メディア人の登場

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ファイル:Median Empire.jpg
メディア王国(黄色) 紀元前600年ごろの版図を示したもの。首都エクバタナ(現在のハマダーン州ハマダーン)は地図中央、チグリス川ユーフラテス川河口とカスピ海のほぼ中間の位置に建設された

インド・ヨーロッパ語族インド・イラン語派に属する古典語のテンプレート:仮リンクを話したメディア人が、いつ頃イラン高原に定着したのかは明らかではない。ギリシア語へ入ったメディア語人名の研究などから紀元前2千年紀末(前1200年のカタストロフ)から紀元前1千年紀の初頭に、他のオリエントの集団(ガーサー語Gathic Avestan, 古代アヴェスター語 - Old Avestanとも)やヴェーダ語話者の集団)と接触を持っていたであろうと推定されているメディア人が定着した。

デイオケス

ヘロドトスによれば、デイオケスという人物が現れてメディアを統合し、エクバタナ(ハグマタナ)に7重の城壁を巡らせて都とし、諸制度と儀礼を定めてメディアを一つにまとめた。アッシリア王サルゴン2世の時代にマーダ(メディア)王ダーイウックという人物が登場するため、彼がデイオケスでありヘロドトスの記録がある程度正しいと考える説が有力であるが、ダーイウックはサルゴン2世との戦いに敗れてシリア地方に追放されており、その業績はヘロドトスの記録とは一致しない。紀元前714年、メディア王ダーイウックは新アッシリア帝国の圧力に対抗するためにウラルトゥ王国ルサ1世と同盟を結んでサルゴン2世と戦った。しかし敗れて捕虜となり、メディアはアッシリアの影響下から抜け出ることはなかった。

フラオルテス

ヘロドトスによれば、次のフラオルテスの時代には大幅に領土を拡大し、ペルシア人を服属させた。同時代のアッシリア語史料によれば、ダーイウックの跡を継いだカシュタリティ(古代イラン語: フシャスリタ、フラオルテス)王の治世に、後世のメディア王国に直接つながる王国の土台が完成した。

ディオドロスの記録によれば、メディア王国の創設者はキュアクサレス1世(フラオルテス)であったとされている。ヘロドトスの記録はかなりの程度信用できるとされているが、同時代のアッシリア語史料との比較では大小の相違点が見出されている。ヘロドトスによれば、アッシリアとの戦いに敗れ、アッシュールバニパルに殺された。

スキタイ人

ヘロドトスによれば、フラオルテスの死後、メディアはスキタイテンプレート:仮リンクの支配下に28年間置かれた。サルゴン2世の碑文に登場するマーダ王ウクサタルを当てる説があるが不詳である。記録から漏れたとも考えられる。上述のようにメディアはアッシリアの記録にたびたび登場するが、これは初期のメディアがアッシリアの圧力を絶えず受けていたことの証明でもある。ウクサタルをはじめ何人かのメディア王はアッシリアに貢納していた。紀元前616年にメディアはマンナエを吸収した。

キュアクサレス2世

フラオルテスの子ウマキシュタル(古代イラン語: フワフシュトラ、キュアクサレス2世)の時代に入って、カルデア人ナボポラッサルが新バビロニア王国を立ててアッシリアが弱体化すると、メディアは新バビロニアと同盟を結び、紀元前612年にアッシリアの首都ニネヴェを攻略、破壊してアッシリアを事実上崩壊させた(その後アッシリアはハランを首都としてなおも継続するが、間もなく新バビロニアによってとどめを刺された)。

ヘロドトスによれば、紀元前597年にフラオルテスの後継者キュアクサレス2世はスキタイ人を宴会に招いて泥酔させて討ち、さらにアッシリアの首都ニノス(ニネヴェ)を陥落させてアッシリアを滅ぼし北部メソポタミアにまで進出した。

キュアクサレス2世はさらに西に進み、アナトリア半島で有力となっていたリュディアの王アリュアッテスハリュス川で戦ったが(テンプレート:仮リンク)、戦闘中に日食紀元前585年5月28日)が発生し、恐れおののいた両軍は講和を結び、ハリュス川を国境とした。

四大国時代とアケメネス朝

アッシリア帝国亡き後、オリエントに君臨したのはサイス朝エジプトリュディア新バビロニア、そしてメディアであった。以後、メディアは4大国の一つとしてオリエントで巨大な影響力を振るうことになる。

アルバケス

ウマキシュタルの後を継いだアルパクサド(アルバケス)の治世には新バビロニアと覇を争った。ディオドロスの記録によれば、キュアクサレス2世の死後、彼の下で将軍として活躍したアルバケスが王に推挙されたとされている。アルバケスはヘロドトスの記録には登場しないが、同時代史料には対応すると思われる人物が登場する。アルバケスについては旧約聖書でも登場し、その中で彼は新バビロニア王ネブカドネザル2世と戦ったとされている。

アステュアゲス

ヘロドトスによれば、メディア最後の王アステュアゲス(イシュトゥメーグ、古代イラン語: アルシュティ・ワイガ ?)の時代、紀元前552年ペルシアアンシャン)のカンビュセス1世キュロス2世が反旗を翻したためアスティアゲスはこれと戦った(en:Persian Revolten:Battle of Hyrba)。

紀元前550年、メディア王に恨みを抱いていたメディアの将軍ハルパゴスにも裏切られ(en:Battle of the Persian Border)、イシュトゥメーグはカンビュセス1世キュロス2世の軍に捕らえられた。メディアは、アケメネス朝の支配下に置かれ、その歴史は終わりを告げた。

後世への影響

サトラップ制

テンプレート:大言壮語 アケメネス朝の地方統治制度として名高いサトラップ制は、実際にはメディア王国時代にその原型が形成されていた。メディア王国ではこれは「フシャスラバーワン」と呼ばれていたと推定されている。

メディア語

テンプレート:仮リンクもアケメネス朝時代にも用いられた。

マゴイ族

メディアの部族名マゴイが司祭を意味する語として残ったことからも、メディア人がアケメネス朝時代にも活発に活動していたことがわかる。その後メディア人はペルシア人と同化し、すでにアケメネス朝時代半ばには厳密に区別されなくなっていた。

6部族

ギリシアの歴史家ヘロドトスは、メディア人に6つの部族があるということを記録に残している。ヘロドトスの記録したメディア人の部族名のうちのいくつかはスキタイ人のものと一致し、メディア人とスキタイ人の間に深い関係があったことを推測できる。またイラン系とは思われない集団を含んでおり、すでに広域の支配権を確立していたらしい。

ブサイ族 (busae) 
この部族の名はペルシア語で「土着」を意味するブザ (buza) から来たと考えられる。これがイラン語の用法から来たのか、あるいは元来の彼ら自身の名前だったのかは不明である。
パルタケノイ族 (Paraetaceni) 
パルタケノイとはパルタケネ山周辺に拠点を置いた遊牧民を指す。
ストルカテス族 (Stru­khat)
アリザントイ族 (Arizanti) 
アリザントイの名は「高貴な人」を意味するアーリア (Arya) と氏族を意味するザントゥ (Zantu) からなると考えられる。
ブディオイ族 (Budii) 
黒海周辺のスキタイ人の部族ブディニと関係があると考えられる。
マゴイ族(マギ族) (Magi) 
この部族は祭司階級であったと考えられ、血統によって地位を継承していた。当時はまだゾロアスター教は一般化していなかったが、彼らはインド・イラン系の神々を祀っていたと考えられる。この部族の名は、後のアケメネス朝ペルシア時代に祭司を意味する語(マグ)として残存しており、メディア人の宗教観が長くイラン高原に残ったことを示唆する。

クルド人

近代の中東においてインド・イラン語派に属する少数民族クルド人民族主義が高まるにつれ、クルド人をメディア人の子孫とする説が現れたが、紀元後にキリスト教を受け入れたセム系の少数民族アッシリア人(シリア人、スリャーイェ)と古代のアラム人やアッシリアの関連性や日ユ同祖論などと同じく、史学的・考古学的には完全に証明されていない。

歴代王

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