T-33 (航空機)
テンプレート:Infobox 航空機 T-33は、アメリカ空軍初の実用ジェット戦闘機P-80から発展した、初の複座ジェット練習機。愛称は原型のP-80同様シューティングスター(Shooting Star:流星の意)だが、Tバード(T-Bird)の愛称も広く用いられた。米海軍でもTO-2(1950年以降TV-2と改称)の名称で使用された。
生産開始から半世紀以上経過した1990年代以降も現役で、日本の航空自衛隊でも1954年から2000年まで運用されていた。
開発
第二次世界大戦の終結後、レシプロ機から格段に高速化したジェット機が長足の進歩を遂げる中、乗員訓練も高速なジェット機で行う必要性が高まった。初の複座ジェット練習機の開発に当たり、P-80Cがベースに選定され、これを複座化した練習機が開発される運びとなった。
P-80は戦闘機としては既に旧態化していたものの、主としてアンダーパワーに由来する離着陸の困難さを除けば、従来の直線翼のため低空低速時の操縦性が比較的マイルドであり、適任と目された。P-80Cの胴体中央部をストレッチし複座化した他、機首の12.7mm重機関銃はオリジナルのP-80/F-80の6挺から2挺に減らされている。また、翼端の増槽(チップタンク)が半固定式になっている(地上で取り外し可能)
上記の点を改造された練習機型試作機は1948年に初飛行した。こうして開発された練習機型は期待通りの性能を示して制式に採用され、当初はTP-80C(TF-80C)と呼ばれていたが、間もなくT-33Aに改称された。
運用
T-33は6,557機以上が1948年から1959年にかけて製造されるベストセラー機となり、世界30か国以上で使用された。そのうち656機はカナダのカナディアでライセンス生産されたロールス・ロイス ニーン装備のパワーアップ型CL-30 シルバースター(Silver Ster)で、カナダ統合軍航空部隊(カナダ空軍)では後にCT-133の名で運用された。また、ボリビア、ポルトガル、ギリシャ、トルコにも輸出・供与された。フランスでもアップグレードとしてニーンエンジンへの換装を行い、T-33SFと呼称した。
練習機型の他に、発展途上国への輸出・供与用にCOIN機として武装可能にしたAT-33Aや、機首にカメラを装備して写真偵察機としたRT-33A、各種装備の実装実験機としたNT-33A、遠隔操作の無人標的機として改造されたQT-33A、全天候要撃機化されたF-94などが存在する[1]。
アメリカ空軍では、1960年代初頭に練習任務をT-38に譲ったが、その後も連絡機や標的曳航機として長く使用され、アメリカ空軍のアクロバット飛行チームである「サンダーバーズ」でも設立当初から1960年代後半まで補助機として使用されていた[2]。最後に残ったNT-33Aが退役したのは1997年のことだった。アメリカ航空宇宙局(NASA)でもT-33Aが練習機、連絡機、チェイス機として運用された。
現在でも、軍より払い下げられたT-33、F-94、原型機のF-80等が民間のアクロチームや事業会社、個人所有で数十機が運用されているとみられる。ボーイング787の初飛行及び試験飛行時には民間レジのT-33がチェイス機として飛行している。アメリカ軍においてもモスボールされている機体を無人機に改造し、標的機として使うことがある。
ボリビア空軍では十数機のAT-33をグラスコックピット化し、COIN機および戦闘機として現在も運用している。同国で戦闘機として運用可能な機体はこのAT-33のみである。練習機の為、実戦経験は多くないものの、ピッグス湾事件では、キューバ空軍が軽戦闘機として(キューバ革命前に導入された)T-33を実戦に投入しており、反革命軍側のA-26爆撃機等を迎撃している。
本田技研工業はHondaJetの開発に際し、飛行実験用(米国内)と地上試験用(日本国内)に中古のT-33を2機購入し運用した。
アメリカ海軍における運用
当初はアメリカ空軍のみで使用されていたTF-80(TP-80)であるが、アメリカ海軍も1949年に陸上練習機として同一機体をTO-2の名称で採用し、空軍が制式名称をT-33に改称した後にはTV-2の名称に改称した。次いで艦載機としての装備を追加した改設計型をロッキード社に発注し、T2V-1 シースター(Sea Star[3])の名称で採用し、1970年代初頭まで使用している。1962年のアメリカ軍による航空機名称統一後はTV-2はT-33B、T2V-1はT-1Aへと改称された。 テンプレート:Main テンプレート:-
航空自衛隊における運用
航空自衛隊では1954年(昭和29年)の創立当初からF-86Fと共にアメリカから68機の供与を受け、翌1955年(昭和30年)からは川崎航空機によって210機がライセンス生産され、計278機が本来目的の乗員育成のみならず、訓練支援、連絡業務、デスクワークパイロットの規定飛行時間維持の為の年次飛行などに広く用いられた。
なお日本では米での愛称「シューティングスター」、日本での公式愛称「若鷹」よりもその型番に由来する「サンサン」の名で広く呼ばれた。
老朽化した1980年代後半から順次退役が始まり、後継機の川崎T-4への置き換えが進められていき、2002年までに退役させる予定だった。しかし、1999年(平成11年)11月22日、入間基地の航空総隊所属の1機が墜落し、乗員2名が殉職、墜落時の送電線の切断により約80万世帯が停電するという事故が発生し、残存していた8機全機に対し飛行停止処分が課され[4]、地上に留置されたまま翌年2000年(平成12年)6月に除籍された[5]。
- 1999年(平成11年)11月22日の事故
- 13時02分 - 中川尋史二等空佐・門屋義廣三等空佐(階級は当時)が年次飛行のため入間基地を出立する。
- 2名とも、5000時間以上の飛行時間を有するベテランパイロットであった。
- 13時36分 - 入間基地への帰投開始
- 13時38分 - 「コクピット・スモーク」
- 13時39分 - 「エマージェンシー(緊急事態)」
- 住宅密集地を避け、入間川河川敷へ向かう
- 13時42分30秒 - 「ベイルアウト」
- すでに機体はバランスを崩し、脱出に必要な高度・角度は確保できない状況だった
- 13時45分頃 - 墜落
- この時、東京電力の27万5000ボルト高圧送電線に接触、これを切断して墜落したため、埼玉県南部及び東京都西部を中心とする約80万世帯を停電、道路信号機や鉄道網を麻痺させる重大事故を惹起した。なお、送電線に接触しなかった場合、狭山大橋に激突し、死傷者が生じる可能性もあった[8]。
- 14時25分 - 鎮火
- 17時01分 - 送電復旧完了
殉職した2名とも11月24日付で1階級特別昇任した。自衛隊における教育内容・事故の目撃証言などから、中川二佐および門屋三佐は、近隣住民への被害を避けるべく限界まで脱出しなかったものと確実視されている[9][10]。
墜落した機体は、航空自衛隊発足時に生産され、一時岐阜基地でモスボール保管された後再び飛べるように整備されており、耐用年数も退役予定時期まで余裕があった。2000年(平成12年)4月に防衛庁は事故原因について、漏れた燃料に電気系統からの火花によって着火し、火災が発生したと断定した。最終的に、乗員および整備員に過失はなかったとして、2002年(平成14年)9月に埼玉県警および狭山署は被疑者不詳のまま航空危険容疑で書類送検した。この時点までに、2名ともさらに1階級特進し、それぞれ空将補・一等空佐となっている。
運用国
- Lockheed T-33A Shooting Star USAF.jpg
T-33A アメリカ空軍機
- CanadairCT133SilverStar07A.JPG
カナダ空軍型 カナデア CT-133 シルバースター
- T-33A.JPG
T-33A 航空自衛隊機 かかみがはら航空宇宙博物館の展示機
- Greek T-33 Shooting Star 1.jpg
ギリシャ空軍機
- Lockheed NT-33A USAF.jpg
開発実験機型 NT-33
要目
- 全幅:11.5m
- 全長:11.2m
- 全高:3.3m
- 速度:最高速度M0.8(J33-A-35エンジン、クリーン状態)/巡航速度M0.65(J33-A-35エンジン。クリーン状態)※クリーン状態は、チップタンク、外部兵装なしの状態である。
- 実用上昇限度:47,500ft(T-33A)
- 航続距離:約2,000Km(T-33A、チップタンク搭載、兵装なし)
- 空虚重量:3,017kg
- エンジン:アリソンJ33 遠心式ターボジェットエンジン(推力:2t)1基
- 武装
- 乗員:2名
脚注
登場作品
- 『600万ドルの男』
- 主人公が元米空軍大佐という設定のため、繰り返しカメオ出演。
- 川崎航空機工業が企画したPR映画。T-33の生産ラインが登場する。
- 『汚れた英雄』
- 原作小説版にて、主人公のバイクレーサー・北野晶夫が自家用として操縦。
- 『ゴジラの逆襲』
- 神子島でゴジラに対する爆撃を実施。
- 『惑星大戦争』