須藤豊

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テンプレート:Infobox baseball player 須藤 豊(すどう ゆたか、1937年4月21日 - )は、高知県安芸郡安芸町(現安芸市)出身の元プロ野球選手内野手)・監督。現在は野球解説者

現役時代は毎日・大毎巨人で活躍し、引退後は巨人・大洋西武の二軍監督・監督・コーチを歴任した。

経歴

現役時代

テンプレート:By高知商業から別当薫監督率いる毎日オリオンズ(テンプレート:By大映ユニオンズと合併し大毎オリオンズとなる)に入団。若手中心のチーム作りを志す別当監督・西本幸雄コーチの下、入団後2年間は正二塁手として活躍した。だが大映との球団合併にともない、大映の正二塁手だった佐々木信也にポジションを奪われ出場機会は減少、以後は守備固めでの出場が多くなる。テンプレート:Byから就任した宇野光雄監督との間に確執を生じテンプレート:By巨人にトレード移籍。チームが4連覇を果たしたテンプレート:By現役を引退。

指導者時代

テンプレート:Byから二軍守備コーチとなり、テンプレート:By一軍守備コーチに就任。しかし、長嶋茂雄監督が就任したテンプレート:Byには球団創設以来、初の最下位に転落した責任を取らされる形で、退団。

その後、埼玉県川口市の鉄工所でサラリーマン生活を4年間経験しながら、勤務先の休日には日本テレビの野球解説者としても活動した。テンプレート:Byには大洋の二軍監督に就任、高木豊屋鋪要らを一流選手に育て上げる。テンプレート:By退任。以後若手選手育成の手腕を買われ、セ・パ両リーグの監督・コーチとして活躍した。テンプレート:By、当時の藤田元司監督の要請で巨人に二軍守備走塁コーチとして復帰。テンプレート:By、一軍守備コーチ(ヘッド格)を経て、王貞治監督時代のテンプレート:By、ヘッドコーチに就任した国松彰の後任として二軍監督に就任。熱血漢と呼ばれ、「チームの勝利と育成の両立」に力を注ぎ、その熱い指導の下イースタン・リーグ4連覇を達成。鴻野淳基川相昌弘斎藤雅樹をはじめ、多くの選手を一軍に送り出した。

テンプレート:Byに大洋の監督に就任し、チームを7年ぶりのAクラスに導く(大洋ホエールズとしてのAクラスはこの年が最後)。また同年の秋季キャンプでは特に新人・若手選手を鍛え上げ、後のチーム強化の下地を作る。翌テンプレート:Byは前年と同じ勝ち星(64勝66敗)ながら5位に終わる(ただし、阪神がダントツ最下位だったため、首位から5位までのゲーム差は10だった)が、佐々木主浩投手を抑えに抜擢する。12月、高校の後輩として重用していた中山裕章投手が不祥事を起こし退団してしまい、その影響もあって翌テンプレート:Byは開幕から低迷したため、その責任をとる形でシーズン途中で辞任した(後任には江尻亮ヘッドコーチが就任)。

1993年、長嶋監督の要請で巨人のヘッドコーチとして2度目の復帰。テンプレート:Byには参謀役としてチームのリーグ優勝、日本一に貢献した。テンプレート:By退団。野球解説者を経て、テンプレート:Byに西武のヘッドコーチに就任。同年7月10日の近鉄戦で東尾修監督が審判への暴力行為で3試合出場停止処分となり3試合監督代行を務めた。テンプレート:By退任。テンプレート:Byにヘッドコーチとして巨人に復帰。堀内恒夫新監督の参謀役を期待されるもチームは思うように機能せず、同年退団。

監督・コーチ時代には、プロ野球名鑑の趣味の項目に「しょうちゅうでの語らい」と記述していた。同じく監督・コーチ時代には、抗議の際帽子を叩き付け顔を紅潮させるという一種のパフォーマンスを行っており、この事が平光清の著書でも触れられている。また、選手に対する鉄拳でも有名で、二軍時代の斎藤雅樹も須藤に殴られた事があるという。

フジテレビの「さらば、愛しきプロ野球…。」では、現役・指導者時代の長かった巨人時代を振り返り、「長嶋・王は、ともに選手を悪く言わなかったが、他人の言うことに耳を貸さない頑固な指導者だった」と語っている。

解説者時代

テンプレート:Byからラジオ日本などの野球解説者、および四国アイランドリーグ高知ファイティングドッグスのアドバイサリースタッフにも就任した(現在は退任)。

野球解説も、熱く、歯切れが悪く、暖かみとユーモアにみちた解説が特徴で、ズームイン!!SUPERではズームイン!!朝!時代からレギュラーコメンテーターを務めていた。また、ズームイン!!サタデーのレギュラーコメンテーターも務めていた。

現在は、夕刊フジ専属評論家としても活動している。同紙の巨人への批判的な編集方針もあってか、掲載されるコメントは原辰徳監督の采配や選手起用に批判的なものが多い。

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 毎日
大毎
133 399 372 23 90 13 3 1 112 22 8 5 9 0 18 0 0 51 13 .242 .277 .301 .578
テンプレート:By2 110 409 370 42 103 16 6 1 134 34 3 6 6 4 29 0 0 43 8 .278 .331 .362 .693
テンプレート:By2 103 279 253 22 48 7 0 1 58 11 2 1 6 0 20 0 0 34 4 .190 .249 .229 .478
テンプレート:By2 42 84 75 5 10 2 1 1 17 4 2 0 2 2 5 0 0 14 1 .133 .188 .227 .414
テンプレート:By2 56 90 84 8 20 2 0 1 25 2 2 1 1 0 5 0 0 17 1 .238 .281 .298 .579
テンプレート:By2 60 122 118 8 27 3 1 1 35 6 2 0 0 0 3 0 1 19 2 .229 .254 .297 .551
テンプレート:By2 巨人 92 217 203 17 41 10 3 0 57 6 5 2 5 0 8 0 1 32 6 .202 .236 .281 .517
テンプレート:By2 73 120 113 9 18 2 1 0 22 3 3 3 0 0 7 0 0 11 1 .159 .208 .195 .403
テンプレート:By2 84 244 225 29 63 9 1 0 74 24 9 4 6 0 11 0 2 26 4 .280 .319 .329 .648
テンプレート:By2 98 220 195 14 45 4 0 1 52 19 3 3 7 4 14 1 0 21 5 .231 .282 .267 .549
テンプレート:By2 70 118 98 4 19 3 1 0 24 6 3 0 8 0 11 2 1 10 4 .194 .282 .245 .527
テンプレート:By2 37 47 43 2 11 2 0 1 16 6 0 1 1 0 3 0 0 7 1 .256 .304 .372 .676
テンプレート:By2 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
通算:13年 959 2349 2149 183 495 73 17 8 626 143 42 26 51 10 134 3 5 285 50 .230 .277 .291 .568
  • 毎日(毎日オリオンズ)は、1958年に大毎(毎日大映オリオンズ)に球団名を変更

年度別監督成績

年度 チーム 背番号 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1990年 平成2年 大洋 78 3位 133 64 66 3 .492 24 90 .266 3.94 53歳
1991年 平成3年 5位 131 64 66 1 .492 10 66 .269 3.74 54歳
1992年 平成4年 5位 131 61 69 1 .469 9 97 .249 3.75 55歳
通算:3年 288 138 147 4 .488 Aクラス1回、Bクラス2回

※1 1990年から1996年までは130試合制

※2 1992年は、休養する前の5月2日までの成績(7勝15敗)

※3 通算成績には1997年西武での監督代行3試合(3勝0敗)を含む

背番号

  • 31(1956年 - 1961年)
  • 30(1962年 - 1968年)
  • 79(1969年 - 1975年)
  • 72(1980年 - 1981年)
  • 78(1983年 - 1995年、2004年)
  • 77(1997年 - 1999年)

関連情報

出演番組

関連項目

外部リンク

テンプレート:横浜DeNAベイスターズ歴代監督