阿閉貞征

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阿閉 貞征(あつじ さだゆき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将浅井氏織田氏の家臣。近江国山本山城主。子に阿閉貞大。貞秀とも。淡路守を自称。

生涯

代々北近江伊香郡国人であったが、浅井氏が京極氏に代わって勢力を拡大するとこれに従うようになった。

貞征は浅井家中では重臣で、北国街道琵琶湖の湖北を見渡せる要害・山本山城を任されていた。元亀元年(1570年姉川の戦いには1000騎を率いて参陣。磯野員昌浅井政澄に続く3段目に布陣した。姉川の戦い後も対織田戦に参陣し、山本山城が織田信長の攻撃を受けるもこれを撃退していた。しかし天正元年(1573年)、信長に内応し山本山に織田軍を引き入れたため、小谷城は孤立し主家滅亡の遠因をつくる。子の貞大と共に織田家に降った後すぐに朝倉攻めの先手を務めている。

主家滅亡後、北近江は羽柴秀吉に一職支配権が与えられ、貞征は山本山城と伊香郡内の本領を安堵されて、秀吉の与力となる。天正3年(1575年)の越前一向一揆にも秀吉と共に参戦している。しかし、次第に秀吉の圧迫が募り竹生島にある扶持を秀吉に取られたため、貞大が信長側近の菅屋長頼に訴えている。天正5年(1577年)より秀吉は中国攻め播磨国へ赴くが、阿閉父子は近江国に留まり信長の旗本となっている。その後越前国木ノ芽城の守備についていたが、本願寺勢力に攻め落とされたという記録が残っている。

天正10年(1582年)、本能寺の変明智光秀に加担して、秀吉の居城・長浜城を占領した。しかし、山崎の戦い明智氏が敗北すると秀吉に捕縛され一族全て処刑された。

なお、藤堂高虎渡辺了も一時期家臣として仕えていた。

関連項目