長期議会

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長期議会(ちょうきぎかい、英語:Long Parliament)は、スコットランドの反乱に敗れたチャールズ1世が賠償金を捻出するため1640年11月に召集した議会である。ここで議会派王党派が対立し清教徒革命を招いた。オリバー・クロムウェルにより1653年4月に解散。

また、独立派が議席を独占した1648年12月以降(すなわちイングランド共和国体制下での状態)を残部議会(ざんぶぎかい)もしくはランプ議会と呼ぶ。

概略

1629年チャールズ1世は国王大権を盾に権利の請願を事実上廃止し、抗議する議会を解散した。その後、チャールズは親政を行うこととなる(専制の11年)。

1639年スコットランドと第1次主教戦争が起こる。結果として両軍は戦うことなく和睦したが、その後も対立は続いたために再び戦争に至ることが予期されていた。当時のイングランドは深刻な財政問題に悩まされていたが(そもそも国王と議会の対立の一因でもあった)、第1次の戦費と合わせ財政問題は限界に達しており、1640年4月、チャールズは来る戦争の予算を得るために親政を取り止め、議会を召集した。しかし、国王と議会の対立はより深刻な物となっており、わずか3週間で解散したため、これを短期議会と呼ぶ。

その後、同年8月に第2次主教戦争が起こるが、戦費が底を付いた国王軍は寡兵に過ぎず敗北した。結果、駐留軍維持費(事実上の賠償金)などが課せられ、財政悪化に拍車をかけた。そこでチャールズは予算を得るため、同年11月に再び議会を召集した(この議会は1653年4月にクロムウェルによる武力解散まで続いたので長期議会と呼ばれる)。

しかし、イングランド国教会を発端として、王党派と議会派は激しく対立し、1641年11月の大抗議文での決裂を持ってイングランド内戦が始まることとなる(清教徒革命)。

内戦の終盤では、議会派内部でも対立が生じた。王党派との和解を目指した長老派は独立派と対立し、1648年12月にクロムウェルは軍事クーデターによって長老派を議会から締め出した(プライドのパージ)。これによって議席は独立派に独占され、以後は残部議会(ランプ議会)と呼ばれるようになる。

1649年、残部議会によってチャールズ1世は処刑され、イングランド共和国が成立する。その後、財政問題から議会と軍の対立が明確となり、1653年4月にクロムウェルは軍隊を率いて議員たちを議場から締め出して長期議会(残部議会)を武力解散し、13年続いた議会は終焉を迎えた。

その後、長期議会の議員たちは解散権は議会が保有する物として解散の不当性を訴え続け、自分達が唯一の正当な政府であることを主張し続けた。一方でクロムウェルは、同年7月に自身の意を汲んだベアボーン議会(聖者議会)を開会している。

関連項目