鐚銭

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鐚銭(びたせん、びたぜに)[1]とは、日本の室町時代中期から江戸時代初期にかけて私鋳された、永楽銭を除く粗悪な銭貨[1]。表面が磨滅した粗悪な銭を指す言葉でもある[1]悪銭(あくせん)とも[2]

経緯

日本では、鎌倉時代後期ごろから貨幣の流通が活発化したが、主に中国で鋳造された中国銭が流通していた。これらの中国銭は、中国(など)との貿易を通じて日本にもたらされたが、日本でもこれらの貨幣を私的に鋳造する者が現れた。これを私鋳銭(しちゅうせん)という。私鋳銭は、一部が欠落したもの、穴が空いていないもの、字が潰れて判読できないものなど、非常に粗悪なものが多く、商品経済の現場では嫌われる傾向が強かった。そのため、これら粗悪な銭貨は鐚銭と呼ばれ、一般の銭貨よりも低い価値とされるようになった。

室町時代に入り、が日本との貿易用に鋳造した永楽通宝などが日本国内で流通するようになると、明の江南地方で作られた私鋳銭や、日本国内で作られた私鋳銭も次第に混入していった。そうした私鋳銭ばかりでなく南宋の戦時貨や明銭自体も不良銭が混じるなど品質劣悪なものが普通だったため、これらを総称して「悪銭」といった。また、こうした悪銭は良質な「精銭」とくらべ低価値に設定されたり、支払時に受け取り拒否されることが多く、これを撰銭(えりぜに)といった。時には撰銭が原因で殺傷事件が起こることもあった。だが、経済発展に加え明の海禁及び貨幣政策の変更(明国内においては紙幣と銀が基準貨幣となり、銅銭を鋳造する意義が無くなった為に鋳造されなくなる)などによって渡来銭の供給が難しくなると、こんどは通貨総量が減って銭不足が生じて粗悪な渡来銭や私鋳銭の流通量は増大し、後に室町幕府の14代将軍足利義栄が将軍就任の御礼に朝廷に献上した銭貨や同じく織田信長正親町天皇儲君誠仁親王元服の際に献上した銭貨が鐚銭ばかりであると非難されたが、これは彼らが朝廷を軽視していたというよりも鐚銭ばかりが流通していて権力者でさえ良質な銭貨が入手困難であった事を示している。

そのため、16世紀になると室町幕府や守護大名戦国大名たちは撰銭を禁ずる撰銭令(えりぜにれい)を発令して、円滑な貨幣流通を実現しようとした。しかし、民衆の間では鐚銭を忌避する意識は根強く残存したものの、1570年代には経済の規模に対する絶対量の不足からくる貨幣の供給不足は深刻化して、代替貨幣としての鐚銭の需要も増えていくことになる。また、金銀や米などによる支払なども行われるようになった。後に織田政権が金銀を事実上の通貨として認定し、豊臣政権江戸幕府貫高制を採用せずに米主体の石高制を採用するに至った背景には、こうした貨幣流通の現実を背景にしたものであったと考えられる。また、織田政権は撰銭令の中で鐚銭を基準とした銅銭に質による交換基準を定めたことで、一定の品質水準に達した鐚銭の通用が保証されたため、鐚銭が京都における一般的に通用した貨幣とみなされて「京銭」と称されるようになった[3]

江戸時代に江戸幕府は永楽通宝の通用を禁じて、京銭(鐚銭)と金貨・銀貨との相場を定めて鐚銭を相場の基準とすることで撰銭のメリットを失わせ、続いて安定した品質の寛永通宝を発行し、渡来銭や私鋳銭を厳しく禁ずるようになると、鐚銭は見られなくなり、撰銭も行われなくなっていった。

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 鐚銭【ビタセン】 デジタル大辞泉
  2. 悪銭【あくせん】 デジタル大辞泉
  3. 田中浩司「貨幣流通からみた一六世紀の京都」、本多博之「統一政権の誕生と貨幣」及び安国良一「貨幣の地域性と近世的統合」(鈴木公雄 編『貨幣の地域史』岩波書店、2007年 第3章・第5章・第6章所収)

関連項目