野村望東尼

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野村 望東尼(のむら もとに、ぼうとうにとも文化3年9月6日1806年10月17日) - 慶応3年11月6日1867年12月1日))は、幕末の女流歌人・勤王家。福岡藩士・浦野重右衛門勝幸の娘。幼名は、もと。贈正五位

文政12年(1829年)、福岡藩士・野村新三郎清貫と結婚。

安政6年(1859年)、夫が亡くなり、剃髪して受戒。その後、福岡の南側の山村(現・福岡市中央区平尾)にあった自分の山荘に勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりする。彼女に便宜を図って貰った中には、勤王僧・月照長州藩士・高杉晋作熊本藩士・入江八千兵衛対馬藩士・平田大江、福岡藩士・平野国臣中村円太月形洗蔵早川養敬などがいる。

慶応元年(1865年)6月、福岡藩で、尊攘派弾圧の動きが強くなり、孫の野村助作と共に自宅に幽閉され、10月に姫島(現・福岡県糸島市志摩姫島)へ流された。翌2年(1866年)9月、晋作の指揮により福岡脱藩志士・藤四郎多田荘蔵らが姫島から脱出の手引きをし、下関の勤皇の豪商・白石正一郎宅に匿われ、馬関で厚遇されるが、慶応3年(1867年)11月、三田尻(現・山口県防府市の古称)で死去した。向陵集、上京日記、姫島日記、防州日記などの遺稿が存在する。[1]

密会場所として提供していた山荘は現在も保存されており、山荘の敷地は平尾山荘公園として整備されている。同公園内には彼女の銅像が設置されている。なお、福岡市中央区赤坂3丁目には生誕地の碑が立っている。

関連項目

登場作品

脚注

  1. 井上精三 博多郷土史事典 葦書房2000年ISBN 978-4751203620 P175-176

外部リンク