那須資景

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那須 資景(なす すけかげ)は、江戸時代前期の大名下野那須藩初代藩主。

生涯

改易からの復活

天正18年(1590年)、父那須資晴が、豊臣秀吉小田原征伐に参陣しなかったため、一度は改易されたが、重臣大田原晴清の陳謝により、当時5歳であった藤王丸に5000石の所領が与えられ、那須氏は存続を許される。さらに資晴も後に赦され、5000石を与えられた。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、同年に300石を加増された。慶長7年(1602年)にも1000石を与えられ、さらに一族の高瀬弥六に200石、大田原周防守に200石、那須八郎に880石、大田原弥次郎に440石が加増され、資景の那須家の所領は合計して8080石となった。慶長11年(1606年)12月25日に従五位下左京大夫叙任。

那須藩立藩

慶長15年(1610年)に資晴が死亡するとその遺領6000石を継ぎ、合計して1万4080石の大名として那須藩を立藩した。慶長19年(1614年)・翌元和元年(1615年)の大坂の役では本多正信隊に属し、落人の首75級を挙げている。寛永元年(1624年)、隠居し、家督を長男の資重に譲った。

那須藩改易

しかし、寛永19年(1642年)、資重は父に先立って死去し、那須藩は無嗣改易になった。ただし、資景は存命していたため、5000石を与えられて、旗本として那須家の存続は認められた。承応元年(1652年)2月18日、青山利長の次男を養子に迎え、那須資弥を名乗らせた。

明暦2年(1656年)1月25日、71歳で死去した。跡を継いだ資弥は既に幕府の小姓として俸禄蔵米2000俵を支給されており、資景の遺領5000石を相続して旗本となった後も蔵米の支給は続いた。資弥は後年さらに5000石の加増を受けると共に蔵米2000俵の俸禄は采地2000石に改められ、石高は1万2000石に達し、再び那須藩主に返り咲いた。

参考資料


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