連山 (航空機)

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連山(れんざん)は1943年(昭和18年)に大日本帝国海軍から試作発注を受け、中島飛行機が開発した4発陸上攻撃機。略符号はG8N連合軍コードネームはRita1943年(昭和18年)7月27日に兵器名称付与標準が改定される以前には「十八試陸上攻撃機」、以降では「試製連山」と呼称された。兵器採用されることなく終戦を迎えている。

概要

連山は発注後1年ほどの1944年(昭和19年)10月に試作一号機が完成し、初飛行に成功。翌1945年(昭和20年)1月に海軍に引き渡された。大型の新型機開発としては異例の早さである。高性能を期待されていたものの実際の試験飛行はほとんど行われなかったため、実性能は不明瞭なままで終わっている。

当時の日本軍用機に比べて生産性・整備性・速力・爆弾搭載量に優れる、空力的に洗練され武装も強力な機体となるものであった。 また、アルミニウム資源枯渇対策としての鋼製機体(連山改)を終戦時点で設計中だった。

連山は鹵獲したアメリカ陸軍航空隊B-17爆撃機を解体・調査して得られた情報や技術を参考に設計されている。機銃配置は一式陸攻と同様、B-17と同一となっているがB-17のより新型のものに準じている。視・射界が極めて良好で空力的にも洗練されており、降着装置も前車輪式を採用していた点が技術的な特徴となっている。

海軍に領収された1、2号機は米軍による空襲を比較的避けやすいと思われた三沢海軍飛行場に空輸され、飛行実験が行われたが、結局、同地で空襲を受け破壊された。完成済みであったが未領収の2機は中島飛行機小泉製作所に隣接する小泉飛行場に残され、1機が空襲により大破、破損した1機だけが終戦時に残されていた。この機体(4号機とされるが異説あり)は米軍に接収され、アメリカアメリカ合衆国本土へ移送されたが、その後廃棄処分となっており現存する機体はない。

仕様

  • 型式:4発中翼単葉陸上攻撃機
  • 構造
  • 全長:22.93 m
  • 全幅:32.54 m
  • 全高:7.20 m
  • 主翼面積:112.00 m²
  • 発動機:中島「」24 — ル型(NK9K-L)空冷式複列星型18気筒(2,000馬力1,490kW)4基
  • プロペラ:VDM定速4翅
  • プロペラ直径:4.00 m
  • 自重量:17.4 t
  • 全備重量:32.15 t
  • 最大速度:593 km/h(1t爆弾を搭載した状態で高度:8,000 mの場合)
  • 巡航速度:370 km/h(高度:4000 m)
  • 最小速度:149 km/h
  • 実用上昇限度:10,200 m
  • 航続距離:3,700~7,470 km(装備の重量によって変化)
  • 乗員:7人
  • 武装
    • 20 mm機銃6門(胴体前方上方旋回2門・胴体後下方旋回2門・尾部旋回2門)
    • 13 mm機銃4挺(機首旋回2挺・胴体両側旋回各1挺)
    • 爆弾250 kg8発・800 kg3発(最大4,000 kg)

試作年次について

本機の試作の進行は以下のようなものであったとされる。

  • 1942年(昭和17年)の12月末に海軍から中島飛行機に「実用機試製計画番号N-40」として大型陸上攻撃機の開発が「内示」された。
  • 中島飛行機はそれに基づいて計画を進め、翌1943年(昭和18年)9月14日に正式な発注が行われた。

前述のように本機は試作発注からわずか1年で初飛行するという異例の速さで開発されたように見えるが、この時期の海軍機試製計画にはあらかじめ実用機試製計画番号が与えられ、事前研究が行われるようになっていた。 試作の内示はあくまで内示に過ぎず、正式な発注の年次によって「○○試」を冠した名称が与えられる。一部戦後の出版物には「17試陸攻註文書[1]」などという記述も存在しているが、一次資料である海軍の文書上での記載は「十八試陸攻」でありこの点は疑う余地がない。また、海軍機の試製時に「註文書」という文書が発せられることもない。[2]

脚注

  1. 航空情報編集部・編集兼発行人(今井仁)『日本軍用機の全貌』1953年、酣燈社刊、206頁(1955年改訂増補版222頁)
  2. 中島飛行機では、その前の四発機「深山」の失敗もあって17年から設計検討に入っており、その意味では17の考え方もありますが海軍からの試作命令は18年になっている。(中島飛行機ホームページ担当者の言葉)

外部リンク

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