足立遠元

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足立 遠元(あだち とおもと)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将足立氏の祖。武蔵国足立郡(現東京都足立区から埼玉県北足立郡)を本拠とする。館跡は現在の桶川市さいたま市など数か所にある。

出自

足立氏は武蔵国足立郡を本拠とした在地豪族で、遠元の父・遠兼が武蔵国足立郡に土着し、遠元から足立を名乗ったとされる。『尊卑分脈』によると藤原北家魚名流藤原山蔭の後裔であり、安達盛長と遠兼を兄弟としている[1]。「丹波足立氏系図」[2](『浦和市史』第2巻〔古代・中世史料編1〕、『上尾市史』第2巻〔資料編2〕所収)によると、藤原北家勧修寺流藤原朝忠の後裔とする。一方で、武蔵国造家の流れで承平天慶の乱の時代に足立郡司であった武蔵武芝の子孫とする説もあるが、武蔵国造家の系譜「西角井系図」(『浦和市史』第2巻〔古代・中世史料編1〕)には、武芝の外孫・菅原氏氷川神社の祭司・足立郡司を引き継いだことが記されているものの、遠元の名は現れない。いずれにしても、遠元以前の系譜は曖昧ではっきりしない。

略歴

平治の乱源義朝の陣に従い、右馬允に任官し、源義平率いる17騎の一人として戦った。

治承・寿永の乱においては、治承4年(1180年)8月に挙兵した義朝の遺児・源頼朝より前もって命を受けており、頼朝が下総国から武蔵国に入った10月2日に豊島清元葛西清重父子らと共に武蔵武士で最初に迎えに参上して、頼朝が鎌倉入りした直後の8日、武蔵国足立郡を本領安堵された。これは、頼朝による東国武士への本領安堵の最初である。

元暦元年(1184年)10月6日、公文所が設置されると、5人の寄人の1人に選ばれた[3]建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参院の供奉をした。さらに、奥州合戦の恩賞として頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた時、その1人に入り左衛門尉に任ぜられる。頼朝死後、2代将軍源頼家の時に成立した十三人の合議制の1人に安達盛長とともに加わる。

吾妻鏡承元元年(1207年3月3日条の闘鶏会参加の記事を最後に史料から姿を消している。少なくとも70代の高齢に達しており、程なく没したと見られる。

幅広い縁戚関係を築き、娘の1人は院近臣藤原光能に嫁ぎ、京都権門とも深い繋がりを有していた[4]。また、別の娘は畠山重忠および北条時房にそれぞれ嫁して、男子を儲けている。武士出身でありながら公文所寄人に選ばれるなど、坂東武士の中にあって文官的素養を持つ人物であった。

脚注

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参考文献

  • 金澤正大 「鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国々衙支配をめぐる公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義」『政治経済史学』156・157、1979年5月・6月
  • 金澤正大 「武蔵武士足立遠元」『政治経済史学』554、2013年2月

外部リンク

  • 『尊卑分脈』では盛長が「安達六郎」、遠兼が「安達藤九郎」と記され、盛長は遠兼の兄としている。盛長は正治2年(1200年)に66歳で没しているため、保延元年(1135年)生まれである。遠元は生没年不詳であるが、孫の藤原知光が仁安3年(1168年)生まれであることから、この段階で若く見積もって30代後半と考えられ、1130年代前半の生まれと推測される。したがって遠元は盛長よりも年長であり、『尊卑分脈』の兄弟順は逆で、実際の名乗りは遠兼が「六郎」、盛長が「藤九郎」であったと見られる。
  • 丹波国氷上郡佐治庄(現在の兵庫県丹波市青垣町佐治)に西遷した遠政(遠元の孫)の末裔が江戸時代に残した系図。内題に「丹波氷上郡佐治庄地頭足立氏系図」とある。
  • 別当は大江広元、他の寄人は中原親能二階堂行政藤原邦通、大中臣秋家。
  • 藤原光能・知光父子は後白河法皇に近く、治承三年の政変で解官された。また光能の妹は以仁王の妾となり、真性を産んでいる。