足利義維

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足利 義維(あしかが よしつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての人物。室町幕府第11代将軍・足利義澄の次男(※実際には12代将軍・足利義晴より年長で長男とされる、後述参照)。第10代将軍・足利義稙養子。第14代将軍・足利義栄の父。堺公方平島公方と呼ばれた。

改名歴

一般的には「足利義維」の名で広く知られているが、生涯の間に数回改名している。

  •  足利亀王(かめおう、幼名
  •  足利義賢(よしかた、義稙が大永元年(1521年)に京都を出奔したときに、養嗣子義賢を伴って和泉淡路を転地とあり、その名が見える[1]
  •  足利義維(よしつな、大永7年(1527年)7月13日の元服時に義賢から[2]
  •  足利義冬(よしふゆ、天文3年(1534年)9月末の堺公方崩壊後、淡路志筑浦に渡ったときに義維から[2]

※以下、本文中では原則、記事題名となっている「義維」で統一する。

生涯

永正6年(1509年)、足利義澄の次男(※実際には長男とされる、後述参照)として生まれる[3]阿波国守護・細川之持の庇護の下で成長する。

大永7年(1527年)、桂川の戦い三好元長細川晴元らと共に、兄の第12代将軍・義晴を擁する細川高国を打ち破って近江国に放逐し、に居ながら京都および山城国摂津国を実効支配した。義維は将軍には正式にならなかったが朝廷から同年7月13日に従五位下・左馬頭に叙任されており、次期将軍として約束されていたため堺公方(または堺大樹)と呼ばれるようになる。

しかし、天文元年(1532年)に後見人の三好元長が細川晴元により自害に追い込まれ、自身も自殺しようとするが、晴元に制止され、その後、阿波国へ渡り、阿波守護・細川之持に庇護された。西光寺にまず入り、天龍寺荘園平島荘に遷って行った。しかしこの5年間は、実質上幕政の中心にいたと考えられるという説もある。

阿波では3千貫の所領を得る[4]が、天文22年(1553年)、三好義賢が之持の子・持隆を謀殺した事件に激怒し、天文24年(1555年)4月に阿波国を去って周防大内氏の下へと移るが、永禄6年(1563年)頃に三好長逸らの手引きにより帰国する。またこの頃、中風になる。

永禄8年(1565年)、松永久秀らによる永禄の変で甥の義輝が謀殺され、永禄9年(1566年)に三好三人衆に「松永対治の御教書」を出した。

のち久秀に擁立されて将軍となった嫡子・義栄を後見する。ついで織田信長に擁された足利義昭との決戦を摂津国にて用意するも、その最中に義栄が病死し、再度阿波国に引き上げた。

天正元年(1573年)10月8日に死去した。享年65。

野史では、義維と義冬とで別人の扱いとなっている。[5]

木像は、京都の足利家が所持し、それを模造した像が、阿南市立阿波公方・民俗資料館に所蔵、養父足利義稙、長子足利義栄の像とともに常設展示されている。

子孫

三男の義任(義遠とする資料もある)は、天文12年平嶋の生まれ、母、周防国大内之介之女。文禄年間に死去。萩原光勝院明岳の父[6]

子孫は阿波平島に代々住み、平島公方と呼ばれた(ただし子孫は、阿波公方や阿州公方といった称号を使い続けていた。また、無位無官にもかかわらず、大納言の装束で外出するなど、その称号に対する誇りだけは、高いものがあった)。

中富川の戦いなどで長宗我部氏を積極支援するなど、蜂須賀氏とはいわば敵対関係にあったためか、蜂須賀氏が阿波を支配した後からは、足利姓を名乗ることを禁ぜられるなど、常に冷遇された。とはいえ、蜂須賀家は、平島公方家を臣下に組み込むべく策謀するなどしたことや、平島公方家を懐柔するべく、動きを取ったこともあるにはあったが、文化2年(1805年)、ついに9代公方足利義根が不満を爆発させ、祖先が政治を執った京都に去り、平島姓から足利姓に復した。

明治維新後に華族編入を願い出たが、大名であった古河公方系統の旧喜連川氏のように爵位を賜ることが出来ず、またそのために、天龍寺などから受けていた援助の打ち切りとなり、その上、浪人身分であったため平民とされた。

現在は義維から数えて14代目の子孫で、創造学園大学教授足利義弘(よしひろ)が足利家28代(尊氏から数えて)当主とされている。

義晴との年齢差に関して

義維は義晴より年上とされているが、嫡男扱いも兄の扱いもされずに次男とされている。これに関しては諸説がある。

まず、義晴の出生が永正8年(1511年)であることは間違いなく、多くの史料[7]によって立証されている。これに対して義維の出生年に関しては諸説がある。義晴と同年の兄とされていれば[8]、1歳上の兄ともされてもおり[9]。ただし永正6年(1509年)生まれの説もあり[10]、播磨の下向に関しては高代寺の記録にもある[11]

また義維の家臣だった者の子孫の記録[12]、義維の孫にあたる義種の記録[13]によると、「義維は65歳で天正元年十月八日に没した」と記録されており、この年齢を逆算すると永正6年となる。最も義種は義維死去の翌年(天正2年(1574年))の出生で、この記録も前者は寛永2年(1625年)に、後者は寛永6年(1629年)9月に記されたものであり、信頼性に関して疑問が持たれているのも事実である。

このため義晴が嫡男扱いされているのは、生母の違いがあるためではないかとする説もある。

歴代の将軍正室に迎えられた日野家の所生たる義晴に対し、足利一門で最高の家格を持つものの、足利氏の分家に過ぎない斯波氏を生母とする義維。義維の母(斯波氏)の位置付けが、日野氏の上に成るとは考えにくく、そこから年齢の順に関係なく義晴・義維の序列が決まってしまったというものである。ただし、義澄正室の日野永俊娘(安養院)は、永正2年(1505年)に義澄と事実上離縁(出家)しており、年代的に安養院が義晴生母とは考えにくい。さらにそもそも義晴生母は阿与という御末(雑仕女)であったという説もある。また義晴が義澄の継室とされる六角氏の所出であったとしても、義維の生母(とされる)である斯波氏の方が家格は高い。このように生年からも生母の身分からも義維のほうが遥かに嫡出の男子と言えるため、結局のところ義晴と義維の年齢差に関しては不明である。

(つまり、仮に家格が義澄>義維だったとしても、上記により義維>義晴となる為、また義晴の年齢も考慮して、本来ならば12代将軍は義澄が死去した時点でまだ生存していた義維となるのが妥当である、しかし実際には義晴が12代将軍となり、義維は将軍にはなっておらず、また後に将軍となる義輝が死去した際、直系である弟の義昭が生存していたにも関わらず、義維の子だった義栄が将軍となっている事から見ても、義維の家格はそこまで低くはなかったと考えられるが、当の義昭が当時出家していたうえ、義輝死去時点ではその生死も不明だったため、将軍襲位の可能性がなかったこともあげられる。それ以前に、義栄将軍襲位当時、義冬は中風での健康不安のため、自身の将軍襲位はあきらめている。)

また、佐竹系図[14]によると、義晴は、「今出川(義稙)ノ爲猶子。義高ノ御息。」とあり、義稙の意思で義晴が将軍襲位したとも考えられる。 ただし、平島公方側の史料『足利家系譜』[15]には、「実は、義維は、十二代将軍義澄の長子なり」と有り、『平島記』には、「義晴を将軍襲位させるために高国が、兄弟順を偽って襲位させた」云々とある。

脚注

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参考文献

『足利将軍列伝』(秋田書店

先代:
-
平島公方

初代

次代:
足利義助
  1. 『公卿補任』
  2. 2.0 2.1 足利季世記
  3. 出生に関しては義澄と同時代の公卿である鷲尾隆康の『二水記』で義澄が播磨に下向した際に生まれたとしている。
  4. 系図纂要』参照
  5. 義維は、堺公方崩壊後に自殺をしそうになるが、それを細川晴元に止められたあと消息不明になったとあり、義冬は義稙の実子の扱いになっている。
  6. 『平嶋記』
  7. 『足利季世記』『伊勢守貞忠亭御成記』『菅別記』
  8. 「法住寺殿第一男、(中略)是は京都の公方様(=義晴)と御同年の御所也」(『続応仁後記』)
  9. 「翌年(永正8年)前公方様(義澄)は九里の館にて二男の若君御儲有り」とある
  10. 「(永正)八年、三月の比、斯(岡山)にて嫡男の御儲あり。義澄卿は若君を御同道にて、密に播州へ御下向あり、彼所の国守赤松を頼ませ給ふ。斯にしばらく御座の間に次男の若君御誕生有ければ、即ち此若君を赤松に御預置給ふ。義晴と申けるは此若君の御事なり」(『公方両将記』)
  11. 『高代寺日記』
  12. 『平島殿先祖並細川家三好家覚書』
  13. 『阿州足利平島伝来記』
  14. 続群書類従第5輯上系図部p.507。昭和34年5月15日訂正3版所収
  15. 阿波公方民俗資料館蔵・平島公方史料集所載