賀陽宮

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テンプレート:日本の氏族 賀陽宮(かやのみや)は、明治中期に久邇宮朝彦親王の第2王子邦憲王が、父宮がかつて称していた宮号を受け継いで、新しく創設した宮家である。賀陽宮の宮号は、朝彦親王の宮邸の榧(かや)の老木に由来するという。


系譜

賀陽宮邦憲王

テンプレート:Main 初代邦憲王(くにのりおう)は、慶応3年(1867年)に誕生。幼名を巖麿王という。本来、父宮朝彦親王の跡を継ぐ予定だったが、病身の故をもって久邇宮家の家督を弟邦彦王に譲った。1892年(明治25年)に醍醐忠順侯爵の長女好子と結婚。

京都に一家を構えるにあたり新たな宮家設立を明治天皇に請願し勅許を得、賀陽宮を称した。邦憲王は、1895年(明治28年)に伊勢神宮祭主に就任。1909年(明治42年)、42歳で薨去

賀陽宮恒憲王

テンプレート:Main 2代恒憲王(つねのりおう)は、邦憲王の第1王子。1900年(明治33年)京都にて誕生。1921年(大正10年)、九条道実公爵の五女敏子と結婚。1931年(昭和6年)に夫妻でアメリカ他欧州、エジプトを訪問。国際親善に努める。開戦については反対論を唱えており、いざ、開戦時は、家族たちに、敗戦の可能性を説き、その際は、皇族をやめることになろうと語る。アメリカ訪問における国力の差を痛感したことによる。陸軍士官学校陸軍大学校を卒業。軍人としては皇道派に近かったと言われている。終戦時は陸軍中将東久邇宮稔彦王と共に敗戦の責任を取って、皇籍離脱することを主張。

1947年(昭和22年)GHQの指令により10月14日皇籍離脱、その際には、自ら区役所に赴いて手続きを済ませた。野球の愛好家で、野球の事業化に着手したが、失敗。1970年(昭和45年)に長野県特別養護老人ホーム「敬老園」を設立した。1978年(昭和53年)、77歳で逝去した。

子に邦寿王美智子女王治憲王章憲王文憲王宗憲王健憲王がいる。

その後の賀陽家の祭祀は邦寿が継承したが、1986年に子が無いまま逝去。更に弟の治憲が継承し、2011年に治憲が逝去した後は三男・章憲(1994年に次兄に先立って逝去)の長男・正憲によって継承された。

賀陽家と皇室の仲はその後も深く、賀陽家から2代に渡って皇太子妃候補を選ぶ話があった他、正憲は、皇太子徳仁親王の同窓生の一人である。邦寿は、陸軍士官学校、京大卒、国会議員に立候補し落選、治憲は海軍兵学校、東大卒、外交官として国連局長、外務研修所所長、在ブラジル大使として活躍した。正憲は、学習院大卒、国家公務員である。

宮邸は京都と東京にあり、京都邸跡地は三十三間堂の隣で現在ホテルとなっており、塀のみ現存。東京邸は千鳥が淵にあって空襲で焼失。現在戦没者墓苑となっている。

その他

賀陽宮家の宮邸があった場所は、現在、千鳥ケ淵戦没者墓苑東京都千代田区三番町)となっている。荻窪須磨などに別邸があった[1][2]

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. 東京市杉並区勢概要. 昭和15年版
  2. 有栖川宮舞子別邸と賀陽宮須磨別邸について (特集 地名研究)歴史と神戸 50(2), 26-39, 2011-04-00

外部リンク

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