謝長廷

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テンプレート:政治家 テンプレート:中華圏の人物 謝 長廷(しゃ ちょうてい、Hsieh Chang-ting、1946年5月18日 - )は、中華民国台湾)の政治家民主進歩党)。元行政院長(首相)。

経歴

中華民国(台湾)台北市延平区(現:大同区)に、漢方医の5人兄弟の次男として生まれる。中学時代から器械体操に打ち込み、高校時代には台湾省運動会(国体に相当)に出場、吊り輪競技で優勝した。台湾大学法律系(法律学科)在学中に司法試験に合格し、1972年には文部省(当時)奨学生として京都大学大学院法学研究科に留学した(法哲学専攻)。父親が体調を崩したため、博士課程を単位取得退学した(最終学歴は法学修士)。 台湾大学法律系(法律学科)卒業、京都大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。法学修士(京都大学)。

1976年11月に帰国後、弁護士となり、美麗島事件の裁判で姚嘉文の弁護を担当。これが政界入りのきっかけとなり、1981年に台北市議選に当選し、国民党独裁政権により野党の結成が禁止されていた中で、「党外編輯作家聯誼會」(編聯会)、「党外公共政策研究会」(公政会)といった「党外」団体の創立にかかわる。1986年9月28日、党外2団体が集まって民主進歩党が結成された際には、党名の提案者となり、綱領草案作成にも中心的メンバーとなる。1986年に中華民国立法院選挙に初めて立候補、1989年の選挙で初当選し、立法委員を2期務めた。

初の直接選挙で行われた1996年中華民国総統選挙では、彭明敏総統候補とペアで、副総統候補として出馬するも落選。しかし、1998年12月の高雄市長選挙で当選し、2000年には民進党主席にも就任。市長との兼任を批判されたため2002年に党主席を退任し、同年の高雄市長選で再選。任期中は、下水道整備による河川や水道の水質改善や、交通インフラや文化建設・史跡保存といった実績を挙げ、市民の支持率は82.6%(2004年12月、高雄市実施)、満足度74%・不満度16%(聯合報の調査)に達した。

2005年1月、高雄市長を任期途中で辞任し、陳水扁政権のもとで4人目となる行政院長(首相)に就任。「和解共生」の理念を主張し、野党国民党や中国に対話を呼びかけたものの、功を奏せず、2005年12月の統一地方選挙(県・市長選挙)で民進党が惨敗した責任をとり、わずか1年足らずで行政院長を辞任した。2006年12月の台北市長選挙に出馬したが、国民党公認候補の郝龍斌に敗北。これで政治生命は窮地に追い込まれたかにみえたが、2007年3月から始まった次期総統選の党内予備選挙において、蘇貞昌呂秀蓮游錫堃と激しい争いとなったが、党員投票トップで公認候補者に指名された。

陳水扁政権の汚職スキャンダルによる逆風の中、2008年中華民国総統選挙で民進党公認の総統候補となり、蘇貞昌を副総統候補に指名した。明治維新に重ねて「台湾維新」をスローガンに掲げ、落選したら政界引退をすると背水の陣で選挙戦に臨んだが、国民党の馬英九候補に220万票余りの大差をつけられ落選した。

現在は、自身が設立した団体である台湾維新基金会董事長を務めている。

2012年10月に訪中し、王毅国務院台湾事務弁公室主任、戴秉国国務委員と相次いで会談した。訪中は、1994年以来2度目である[1]

日本との関連

2000年に「民進党台日友好協会」を結成し、初代団長に就任。「日本統治時代にインフラ建設が進み、日本の教育を受けて日本に親近感を持つ父親の影響を受けた」と述べるなど「親日派」であることを明言している。

2007年12月、総統候補として訪日し、母校の京都大学で「日台関係強化の道」と題して講演。日本版「台湾関係法」の必要性を主張した[2]

脚注

  1. テンプレート:Cite news
  2. テンプレート:Cite news

参考文献

  • 郭瓊俐『打鐵街少年:謝長廷的故事』布克文化、2005年、ISBN 9868113970
  • 郭瓊俐『逆中求勝 謝長廷的生命美學』天下文化、2007年12月、ISBN 9789862160312
  • 謝長廷『幸福台灣.幸福經濟-謝長廷承諾』 播種者、2008年2月、ISBN 9789576966361
 テンプレート:Flagicon中華民国
先代:
呉敦義
高雄市長
1998年 - 2005年
次代:
陳其邁(代理)
先代:
游錫堃
テンプレート:Flagicon 行政院長
2005年 - 2006年
次代:
蘇貞昌
民主進歩党
先代:
林義雄
党主席
2000年 - 2002年
次代:
陳水扁

テンプレート:民主進歩党主席