藤原国衡

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藤原 国衡(ふじわら の くにひら、生年未詳 - 文治5年8月10日1189年9月21日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の奥州藤原氏の武将。奥州藤原氏3代当主・藤原秀衡の長男。母は側室で蝦夷の娘であったとも言われる。異母弟に泰衡忠衡ほか。妻は義母でもある父・秀衡の後妻。西木戸殿西木戸太郎とも。

生涯

秀衡の長男であったが、庶子であったために後継者からは除外される。正室の子である異母弟の泰衡が「母太郎」「当腹の太郎」と呼ばれたのに対し、国衡は「父太郎」「他腹の嫡男」と呼ばれた。『愚管抄』に「武者柄ゆゆしくて、戦の日も抜け出て天晴れ者やと見えけるに」とあり、庶子とはいえその存在感は大きく、一族の間では京下りの公家の娘から生まれた泰衡よりも、身近な一族の娘から生まれた長男で武勇優れた国衡への期待が高かったとも考えられる。

秀衡は家督相続に当たって兄弟間の融和を図るため、自分の正室を国衡に娶らせた。国衡にとっては義母であるが、後家は強い立場を持ち、兄弟の後見役である藤原基成が岳父となり、後継者から外された国衡の立場を強化するものであった。秀衡は自分亡き後は源義経を主君として推戴し、兄弟異心無きよう泰衡・国衡・義経に起請文を書かせ、三人一味となって源頼朝の攻撃に備えるよう遺言し、文治3年(1187年)10月29日没した。しかしその後、泰衡は頼朝の圧力に屈して義経を襲撃し自害に追い込み、更に義経派であった異母弟・忠衡も殺害した。国衡は妾腹の生まれという負い目からか、これを傍観するしかなかった。

文治5年(1189年)8月、奥州合戦で大将軍となった国衡は、伊達郡阿津賀志山(現・厚樫山)で防戦(阿津賀志山の戦い)。寡兵ながら三日間にわたって激戦を繰り広げ善戦するも敗れ、出羽国へ逃れようとしたが、幕府御家人の和田義盛の矢で射られて深田に倒れ、畠山重忠の家臣・大串次郎に討ち取られた。

国衡の乗っていた馬は奥州第一の駿馬で高楯黒と号され、大肥満の国衡が毎日必ず三度平泉の高山に駆け上っても、汗もかかない馬であったという。

関連項目