藤原乙牟漏

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藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ、天平宝字4年(760年[1] - 延暦9年閏3月10日790年4月28日))は、奈良時代末期の皇妃。第50代桓武天皇皇后、第51代平城天皇・第52代嵯峨天皇の生母となった.[2]

親族

父は藤原式家藤原良継、母は阿倍粳蟲の娘で尚侍尚蔵(就任時期不明)・阿倍古美奈。山部親王の許に入内し、宝亀5年(774年)8月に小殿親王(後に改名して安殿)を産んだ。[3]

生涯

天応元年(781年4月15日には山部親王が即位して桓武天皇となり、延暦2年(783年2月5日には無位から正三位に叙される。2月7日には夫人(ぶにん)となり、4月には皇后に立てられる。同4年(785年)には安殿親王(後の平城天皇)が立太子される。

延暦5年(786年)には神野親王(後の嵯峨天皇)を産む。同8年(789年)には高志内親王を産む。同9年(790年)閏3月10日に31歳[1]崩御し、高畠陵(長岡陵、京都府向日市)に葬られた。大同元年(806年)には即位した平城天皇により、皇太后を追贈された。『続日本紀』によると、「后姓柔婉にして美姿あり。儀、女則に閑って母儀之徳有り」と記されており、「乙牟漏皇后は美しい方で、温和なお人柄であられた。礼儀正しく、良き母であられた」という意味である。

桓武天皇の周囲では延暦7年(788年)に夫人藤原旅子、同8年(789年)皇太夫人高野新笠(桓武の実母)、そして翌年に皇后乙牟漏が相次いで没している。また同11年(792年皇太子安殿親王も病気となり、畿内に水害が起こるなど、凶事が相次いだ。桓武はこれを延暦4年(785年)藤原種継の暗殺事件により廃太子され憤死した早良親王の祟りであるとし、その霊をなだめる祀りを行わせた。こうして、日本の歴史上はじめて怨霊の観念が生まれることとなった。

脚注

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出典

  • 高島正人「奈良時代における藤原氏一門の女性」『奈良時代諸氏族の研究』所収、吉川弘文館、1983年、ISBN 4642021183


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  1. 1.0 1.1 一代要記[1]に薨年三十九とあり、これに拠るなら天平勝宝4年(752年)生まれということになる。高島正人は、父藤原良継や桓武の年齢、平城の出生年(続日本紀の記述どおりだとすれば満13あるいは14歳で出産したことになる)からすれば、こちらのほうが合理的だとしている。高島「奈良時代における藤原氏一門の女性」『奈良時代諸氏族の研究』p.397。
  2. Ponsonby-Fane, page 62.
  3. Nussbaum, Louis-Frédéric. (2005). "Fujiwara no Umakai" in テンプレート:Google books; Brinkley, Frank et al. (1915). テンプレート:Google books