舎人親王

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舎人親王・『前賢故実』より

舎人親王(とねりしんのう、天武天皇5年(676年) - 天平7年11月14日735年12月6日[1]))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族舎人皇子(とねりのみこ)とも記される。天武天皇皇子淳仁天皇の父で、諡号崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)。官位一品知太政官事太政大臣

天武天皇の諸皇子の中で最後まで生き残り、奈良時代初期に長屋王とともに皇親勢力として権勢を振るう。『日本書紀』の編集も総裁した。子孫の清原氏高市皇子系列の高階氏と共に天武系後裔氏族として長く血脈が続いた。

経歴

養老2年(718年)、一品に昇叙され、翌養老3年には元正天皇より異母弟・新田部親王と共に皇太子・首皇子(のち聖武天皇)の補佐を命じられた。養老4年(720年)5月には自らが編集を総裁した『日本書紀』を奏上している。同年8月、当時の朝廷の実力者であった右大臣藤原不比等の薨去に伴い知太政官事に就任し、右大臣(のち左大臣)の長屋王とともに皇親政権を樹立する。

神亀元年(724年聖武天皇即位に際し、封500戸を加えられている。舎人親王は次第に藤原氏寄りに傾斜し、天平元年(729年)2月に起こった長屋王の変では新田部親王らと共に長屋王を糾問し、自害せしめた。さらに同年8月には藤原不比等の娘・光明子の立后を宣言するなど、藤原四兄弟政権の成立に協力した。

天平7年(735年)11月14日、天然痘が蔓延する平城京で60歳の生涯を閉じる。最終官位は知太政官事一品、即日太政大臣官職を贈られる。

天平宝字3年(759年)、息子の大炊王が即位淳仁天皇)するに及び、天皇の父として崇道尽敬皇帝と追号された。

墓所は、奈良県奈良市田中町にある黄金塚陵墓参考地が候補地とされていたが、平成21年(2009年2月の発掘調査により、別人のものと判明した。

奈良市春日山には二つの峯があり、昔から南側の少し高い峯を高峯と呼んでいて、その高峯に廟所がある。(南都奉行所の和州拾五郡郷士衆徒国民姓氏実録より。)

官歴等

血縁

系図

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歌人

万葉集』に3首の歌が残る歌人でもある。また、柿本人麻呂歌集に舎人親王に献上された5首の歌が残されており、交流の跡が偲ばれる。また、賞金をかけておもしろい歌を作れといった題詞もあり、文雅を愛する人であったと思われる。

親王の歌を一首を紹介する。

ぬば玉の夜霧ぞ立てる衣手の高屋の上にたなびくまでに (『万葉集』巻9)

脚注

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関連項目

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  • ユリウス暦では735年12月2日