箱男

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テンプレート:基礎情報 書籍箱男』(はこおとこ)は、安部公房長編小説1973年(昭和48年)3月30日に新潮社より書き下ろしで刊行、その後文庫版が新潮文庫から刊行されている。冒頭に登場するネガフィルムの1コマのほか、安部公房が撮影した写真作品8枚、独立的な要素を持つ時空間や話者の異なる章が挿入されるなどの実験的な構成となっている[1][2]

本作は『燃えつきた地図』以来、7年ぶりの小説で、安部公房によると、あさってには終わる感じで何年か経ってしまい、書き直すたびに振り出しにもどり手間がかかり、300枚の完成作に対して、書きつぶした量は3千枚を越えたという[3]。また箱男の発想のきっかけとして、浮浪者の取り締まりの現場に立ち会った際に実際に上半身をダンボール箱をかぶった浮浪者と遭遇し、ショックを受け小説のイマジネーションが膨らんだと語っている[4]

あらすじ

テンプレート:Amboxテンプレート:DMCA 運河をまたぐ県道の橋の下で箱男のぼくは、「箱を5万円で売ってほしい」と言った「彼女」を待ちながら、ノートを書いている。自分が「あいつ」に殺されるかもしれないからだ。10日ほど前、ぼくは立ち小便の最中に肩を空気銃で撃たれ、その逃げる中年男の後姿をフィルムに収めた。直後に自転車に乗った足の美しい娘(彼女)から、「坂の上に病院があるわ」と3千円投げ込まれた。その病院にいた医者と看護婦は、ぼくを銃で撃った男と、自転車娘だった。彼女に手当てをされながら麻酔薬を打たれ、いつの間にかぼくは箱男の知り合いのふりをして箱を5万円で売る約束をしていた。

自転車で来た彼女が橋の上から1通の手紙と5万円が投げ込んだ。手紙には、箱の始末を一任すると書かれ、箱を引き裂いて海に流してくれとあった。動機が解せない箱男のぼくは夜、病院へ向った。部屋を覗くと、贋の箱男の前で彼女がヌードになっていた。それはどこかで見たことのあるような光景で、自分の願望の幻のようだった。

海水浴場のシャワーで身奇麗にして、再びぼくは病院を訪ねた。贋箱男は、箱の所有権を渡してほしいと言い、ぼくと彼女がここで自由に好きなことをしていいという交換条件に、その行為を覗かせてほしいと言った。贋箱男に促され彼女は服を脱ぎ始めたが、「見られる」ことが嫌なぼくは、その提案を拒否した。そして肩を撃たれた時の犯人の証拠写真を持っていることを告げると、贋箱男は態度が急変し、空気銃で威嚇した。ぼくは贋箱男と格闘する。

贋箱男は戦時中、軍の衛生兵で、そのときの軍医の名義を借りていた贋医者Cであった。軍医は重病から麻薬依存になり、戦後はCに診療所の代診をさせていた。遺体安置室を自分の部屋にしていた軍医は安楽死を望み、Cが自分を殺してくれることを待っていた。Cは箱男の箱を利用し、軍医が死んだ後の遺体を箱と一緒に海に流し、浮浪者の溺死に擬装しようと考えていた。

海水浴場のシャワーで身奇麗にし、服を乾くのを待っていた箱男は、自分とそっくりな箱男が歩いているのを見てあわて、やっと病院に辿り着いた。本物の箱男だと名乗る裸のぼくは、裸になった彼女に迎え入れられた。ぼくは、「白状するよ、ぼくは贋物だったんだ」、「でも、このノートは本物なんだよ。本物の箱男からあずかった遺書なのさ」と言った。ぼくは彼女はそこで2ヶ月ほど裸で暮らしたが、結局、彼女は服を着て出て行った。階段脇の遺体安置室の存在が2人の間に影を落していたとは言えない。ぼくらはそれを黙殺し、臭気も放置した生ゴミでごまかしていた。実は彼女は玄関から出て行ったのではない。彼女の部屋のドアの音だったのである。玄関は最初から釘付けにしておいた。非常階段の門にも鍵を下ろしてあったので、家の中にいるはずだ。ぼくは家の電源を切り、箱を脱いだ裸のまま彼女の部屋を訪ねた。部屋だった空間が、どこかの駅の隣合った売店裏の路地に変わっていた。彼女はどこに消えたのだろう。

登場人物

ぼく
箱男。カメラマン。ダンボール箱をかぶってT市を放浪し、箱の中で記録をつけている。醤油工場の塀の近くで突然空気銃で肩を撃たれ怪我をする。戸籍の上では29歳だが、本当は32、3歳らしい。もう3年間箱男をやっている。
贋医者(C)
贋箱男。T市で診療所を開業している中年男。生年月日は昭和元年(1927年)3月7日(誕生日の日付は安部公房の誕生日と同じ)。医師見習(看護夫)。姓名はC。独身。戦時中、軍で衛生兵をしていた。昨年まで内縁の妻・奈々が看護婦として一緒にいた。奈々は、Cが医療行為に際し名義を借用した軍医の正妻。
彼女
看護婦見習。名前は戸山葉子。元モデル。貧しい画学生で、個人経営の画塾やアマチュア画家クラブの連中相手に絵のモデルをして生計を立てていた。2年前、中絶手術を受けに贋医者の病院を訪れ、そのまま見習看護婦として居ついた。代りに贋医者の内妻・奈々は出てゆき、ピアノ塾を開業する。
軍医
戦時中に重病に倒れ激しい筋肉痛を抑えるために麻薬を常用して中毒になる。自分の名義をCに貸して診療所を開設させ、自分の妻もCの内妻にさせていた。
A
アパートの窓のすぐ下に出没する或る一人の箱男を、窓から空気銃で撃ち退治するが、のちに自分自身も冷蔵庫が梱包されていたダンボールで箱を作り、箱男になる。
B
箱男Bの抜け殻のダンボール箱は、公衆便所と板塀との隙間で朽ちていた。ぼろぼろと砕け落ちる小型の手帳があった。
少年D
中学生。手製のアングルスコープで女教師のトイレ姿を覗こうとして、女教師に見つかる。
体操の女教師
少年Dの家の隣家の離れで、ピアノの練習をしている。
サラリーマン風の中年男
突然、ぼくの目の前で、街の歩道で倒れて死ぬ。
学生風の男
倒れた中年男の死に、偶然ぼくと居合わせる。
ワッペン乞食
箱男を目の敵にする老人の浮浪者。全身鱗のようにワッペンや玩具の勲章をつけ、帽子にはケーキを飾る蝋燭のようにぐるりと日の丸の小旗を立てている。箱を小旗で突き刺す。
自分の息子をショパンと呼ぶ。60歳すぎ。貧しくて馬車を雇えないので、息子の結婚式のために馬車の代りに自分がダンボール箱をかぶって荷車を引く。
ショパン
父の引く荷車に乗り花嫁の家の近くに着いたところで立小便をし、それを花嫁に見られて、父の箱にまたがり町を出てゆく。彼女を想って描いた小さなペン画を、箱男の父が売りさばき金が儲かり、父の箱が赤い木皮製となる。ショパンの切手は売れ続け、その後、父の箱は郵便ポストとして後世に受け継がれた。

作品評価・解説

テンプレート:Cleanup 安部公房は、「都市には異端の臭いがたちこめている。人は自由な参加の機会を求め、永遠の不在証明を夢みるのだ。そこで、ダンボールの箱にもぐり込む者が現われたりする。かぶったとたんに、誰でもなくなってしまえるのだ。だが、誰でもないということは、同時に誰でもありうることだろう。不在証明は手に入れても、かわりに存在証明を手離してしまったことになるわけだ。匿名の夢である。そんな夢に、はたして人はどこまで耐えうるものだろうか」[5]と自作を紹介し、「帰属というものを本当に問いつめていったら、人間は自分に帰属する以外に場所がなくなるだろう。ぼくにとってそれが書くということのモチーフだけれど、特に今度の書下ろし『箱男』では、それを極限まで追いつめてみたらどうなるかということを試みてみたわけだ」[6]と解説している。そして、「デモクラシーの極限というものがどういうものであるか、人間がそれに本当に耐え得るのかどうか。今だいたいデモクラシーというと非常にやわな、なまくらなもののようにいわれていますが、それを極限までいくと、なかなかやわでない、非常に厳しいものだという感じがしてくる」[4]と述べている。

また安部は、「離脱というイメージにもいろいろなタイプがある。僕は最初、こじきに興味があり、だいぶ調べたんですが、箱男はその過程でひょっこり遭遇したものです。箱男を想定した根拠にはもう一つ、人間関係を“見る” “見られる”という視点からとらえてみようといったねらいがあるんです」[3]と述べ、新しい人間関係は、「“見る”ことには愛があるが、“見られる”ことには憎悪がある」という二つの深い均衡の上に生まれることを作品の中で実証したかったという。そして、「小説とは何だろう。人間がものを書くという行為について、こんどほど考えたことはなかったですね。現代小説のもつアンチ・ロマンの方向を、どうしたら少しでも飛躍させられるか、そんな冒険もやってみたんです」[3]と述べ、各章を独立させた作品構成の意図については、「二回読んでもらうとわかると思うのですが、バラバラに記憶したものを勝手に、何度でも積み変えてもらうように工夫してみたんですよ。つまり作者にとって一人称のタッチでは手法的に限定があるし、三人称では勝手すぎて作品の信用が薄れる危険がある。そこで両方を自由に操る方法はないかと考えた結果で、読者にとっては小説への参加という魅力が生まれるんじゃないか」[3]と解説している。

また作中で登場する贋医者について安部は、戦争中の医者の不足した時代に医者の心得や技術をかなり持っていた衛生兵がいたことに触れ、自分のように医学部を卒業している者よりも、そのような「贋医者」の方が実質的に上であったとし、現在では国家によって登録されることで贋物であるか本物であるかを判断し、贋医者をこの世の悪かのように一般的に決めつけられるが、本物の医師の中でも大変な技術の差があり、素人と変わりないいいかげんな医師も多いと医学界の内部事情を語り、そういう免状だけの本物の医師の方が危険で怖いと述べている[4]。そしてそれを敷衍し、ある意味で一切のものが登録されていないダンボールをかぶった乞食という存在から発想を得た『箱男』の贋物と箱男の関係について、「とにかく本物と贋物ということが、実際の内容であるよりも登録で決まる。そういうことから、全然登録を拒否した時点で、何でもないということは乞食になるわけです。これが乞食でない限りは全部贋物になる。その贋物がいっぱい登場してくる、贋物と箱男の関係で、とにかくイマジネーションとしては膨らんでいったわけです」[4]と解説している。

なお、本編では組み込まれず、予告編のみで紹介されていた章には、箱男Bが何者かの襲撃に会って争い、どちらか一人が死んだことになっていて、死んだ男は、「人造皮のジャンパーの腋の下が裂け、裾がめくれて、小さな花模様のシャツがのぞいている」[7]と書かれている。安部は、「ところで、やっかいなのは、ここから先の計算だ。いったい、どっちが死んで、どっちが生き残ったのだろう」[7]と書き、「殺されたのがBの方だった場合は、どういう事になるのだろう。あいにく、事情はまったく変わらないのだ。原因不明の事故による、ごくありふれた変死体。前には彼を守ってくれた同じ条件が、今度は彼を見殺しにする。箱男に化けた襲撃者は、一見して箱男だというだけで、無事容疑者リストから除外してもらえるのだ。たしかに箱は理想の避難所である。箱の外見に変化がないかぎり、内容にどんな変更があろうと、同じ箱男で通用してしまう。本来箱男殺しは、完全犯罪なのだ。そしてBは何時までたってもBなのである」[7]と本編の箱男の中の人物の謎へのヒントを残している。また、自殺したがっているアル中の浮浪者を仲間の浮浪者が同情し首吊りを手伝ったという新聞記事からも発想を受けた独立した章もあったが、最終稿からはずしたという[4]。安部のノートには、「自殺者が発見されたとき、その仲間は近くの石に腰をおろして泣いていた。警官の尋問に対して、男はただ『待っていた』とだけ答えた。『何も待っていたのか』と聞かれても、それには答えることが出来なかった」[4]とメモされている。

また、一部の批評家のあいだで、安部は『箱男』で小説形式というものを破壊してしまい、とりわけ結末部分が意味するのは、文学の死そのものだといわれていることについて、ナンシー・S・ハーディンから問われると安部は、『箱男』はサスペンス・ドラマないし探偵小説と同じ構造だと答え、「あの男は罪を犯した男ですから、したがってぼくがあの小説を書くためにその罪を犯したことになると思います。でもあの男の正体はだれにもわかりません。ぼくが『箱男』の中で読者に伝えようとしたのは、箱の中に住むことはどういうことなのかと考えてもらうことでした」[8]と述べている。

平岡篤頼は、「この小説のなかに展開されているのは、箱の覗き窓から見た外の光景ではなくて、すべて箱の内側に記された落書となる。現在進行中の『物語』となる。そこに吹き荒れているのは、フィクションの熱風である。だが、その『物語』を記録してゆく箱男とは誰なのだ、ということになると、現代小説における作者の位置について誰でも多くのことを思いめぐらさずにはいられないはずである」[9]と解説している。

おもな刊行本

  • 『箱男』(新潮社、1973年3月30日)
  • 文庫版『箱男』(新潮文庫、1982年10月25日。改版2005年) ISBN 4-10-112116-8
    • カバー装幀:安部真知。本文写真:安部公房。付録・解説:平岡篤頼
    • ※ 2005年改版より、カバー装画:近藤一弥(フォト:安部公房)。
  • 英文版『The Box Man』(訳:E. Dale Saunders)(Tuttle classics、1975年1月)

翻案

影響

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. 永野宏志『書物の「帰属」を変える―安部公房「箱男」の構成における「ノート」の役割―』(工学院大学研究論叢、2012年10月)
  2. 杉浦幸恵『安部公房「箱男」における語りの重層性』(岩手大学大学院人文社会科学研究科紀要、2008年7月
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 安部公房『「箱男」を完成した安部公房氏――談話記事』(共同通信、1973年4月6日号に掲載)
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 安部公房『小説を生む発想――「箱男」について・現代乞食考』(第66回新潮社文化講演会・新宿・紀伊國屋ホール、1972年6月2日)。新潮カセット『小説を生む発想――「箱男」について』(新潮社、1993年10月20日) 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "hassou"が異なる内容で複数回定義されています
  5. 安部公房「著者のことば」(『箱男』函表)(新潮社、1973年)
  6. 安部公房『書斎にたずねて――談話記事』(『箱男』投込み付録)(新潮社、1973年)</
  7. 7.0 7.1 7.2 安部公房『箱男 予告編――周辺飛行13』(波 1972年11月号に掲載)
  8. 安部公房(聞き手:ナンシー・S・ハーディン)『安部公房との対話』(ユリイカ 1974年8月号に掲載)
  9. 平岡篤頼「解説」(文庫版『箱男』(新潮文庫、1982年。改版2005年)

参考文献

  • 『安部公房全集 24 1973.03-1974.02』(新潮社、1999年)
  • 『安部公房全集 23 1970.02-1973.03』(新潮社、1999年)
  • 『安部公房全集 25 1974.03-1977.11』(新潮社、1999年)
  • 文庫版『箱男』(付録・解説 平岡篤頼)(新潮文庫、1982年。改版2005年)
  • 永野宏志『書物の「帰属」を変える―安部公房「箱男」の構成における「ノート」の役割―』(工学院大学研究論叢、2012年10月) [1]
  • 杉浦幸恵『安部公房「箱男」における語りの重要性』(岩手大学大学院人文社会科学研究科紀要、2008年7月) [2]

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