竹浦駅

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テンプレート:駅情報 竹浦駅(たけうらえき)は、北海道白老郡白老町字竹浦にある北海道旅客鉄道(JR北海道)室蘭本線である。駅番号H26電報略号タケ

駅構造

  • 混合ホーム2面3線の地上駅で、配線の関係から下り列車のみ待避可能である。駅舎は上り線ホーム側にある。
  • 無人駅である。2007年5月31日までは簡易委託駅(窓口営業時間6時00分 - 16時00分)であった。
  • 上り線と下り線のホームを結ぶ跨線橋は、国鉄の赤字削減案に対する白老町の要望から社台駅と共に昭和55年に新設設置され、駅前・駅裏を結ぶ陸橋と併用する構造となった。[1]
  • かつての駅舎は、駅前に日本通運の営業所があり夜行の貨物も扱っていたため、宿直室も備えた比較的大きなものであったが、火災で一部損傷し現在の小さなものに変わった。また、下り線ホーム上に木造の小さな待合室があったが、現在は撤去されている。

駅名の由来

明治12年7月の開拓使による郡区町村編成時、アイヌ語で「シキ=オ」(鬼茅のあるところ)に由来する「敷生村」が創設された。旧駅名の「敷生」は、この村名から採られている。その後3村合併で白老村に組み込まれて字敷生となるが、昭和14年1月21日の字名改正で、周辺が食用竹(実際には千島笹)の産地であったことと臨海部であったことにちなみ、字名が竹浦となった[2]。その後の3年間は駅名と地域名が異なる状況であったが、昭和17年に駅名も改称した。

この食用竹は当駅からの主要な出荷品の一つであったが、現在では当駅周辺に自生しておらず、沿線で目にすることも無くなったが、山手の敷生川上流の飛生(とびう)地区に若干残っている。

駅周辺

歴史

ファイル:Takeura eki.jpg
1976年の竹浦駅と周囲約750m範囲。左下が東室蘭方面。右上の、街区画に対して斜めに上へ向かう細道が、砂利及び敷生鉱山専用線の跡。積込み場が白老側にあったため、乗降ホームは構内の鷲別側に寄って設置されている。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
  • 1897年明治30年)2月16日 - 北海道炭礦鉄道敷生駅として開業[3]一般駅
  • 1906年(明治39年)
  • 1917年大正6年) - 当駅より飛生川の合流点を越えて敷生川上流の砂利場へ砂利専用線敷設[5]
  • 1918年(大正7年)10月31日 - 北海道製鉄(後に日本製鋼所)敷生鉱山専用線が砂利専用線の敷生川と飛生川合流地点付近から分岐して飛生の架空索道原動所(「終点」と呼ばれた。)まで敷設(当駅からは4M24C、約6.9km)。輪西製鉄所向け鉄鉱石運搬[4][5][6][7]
  • 1920年(大正9年) - 日本製鋼所敷生鉱山休山により国鉄は鉱山専用線の公用を廃止。その後専用線は個人に貸し出して木材や木炭の運搬に使用された[5]
  • 1931年昭和6年)頃 - 旧鉱山専用線が分岐点まで撤去され、砂利専用線だけとなる[5]
  • 1942年(昭和17年)4月1日 - 竹浦駅に改称。
  • 1944年(昭和19年)8月12日 - 砂利専用線使用廃止[5]
  • 1950年(昭和25年)頃 - 砂利専用線撤去[5]
  • 1954年(昭和29年)10月 - 駅舎改築[4]
  • 1972年(昭和47年)3月15日 - 貨物取扱い廃止。
  • 1980年(昭和55年)
  • 1985年(昭和60年)5月15日 - 荷物取扱い廃止。
  • 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR北海道に承継。
  • 2007年(平成19年)6月1日 - 簡易委託廃止。無人駅となる。

敷生鉱山専用線

敷生鉱山は、第一次世界大戦の軍事的な要求から室蘭の北海道製鐵輪西製鉄所(現在の新日鐵住金室蘭製鐵所)へ鉄鉱石を運搬するため、1918年(大正7年)に国鉄によって当駅から飛生地区まで(一部砂利線と兼用)専用線が敷かれて蒸気機関車が乗り入れた。埋蔵量が少なかったことと、戦争終結のために、結果的にたった3年でこの専用線の公的な運用は廃止されたが、その後1921年(大正10年)から民間に10年間程貸し出され、トロッコ貨車(動力は機関車ではなく農耕馬)により、また勾配がきつかったためにインクラインを設けて運用されていた。その後レールが撤去されて砂利線が残るが、こちらも1944年(昭和19年)には砂利が少なくなったことで廃止となり、1950年(昭和25年)頃には当駅までの全てのレールが撤去された。駅裏が広い空き地になっているのはかつてトロッコから鉄道貨車への貨物積み替え用の施設があった名残である。終着の停留所(旧飛生小学校の裏手)のあったあたりは現在でも「終点」と呼ばれている。昭和40年代から50年代にかけて跡地の道路が舗装されるまではレールの残骸が道ばたに放置されていた。日鐵鉱業所有となった敷生鉱山は、その後1952年(昭和27年)から1957年(同32年)の間再開したが、運搬はトラックで行われた。

隣の駅

北海道旅客鉄道
室蘭本線
虎杖浜駅 (H27) - 竹浦駅 (H26) - 北吉原駅 (H25)

脚注

  1. 新白老町史 下巻 平成4年発行 P686-688 昭和54年5月の国鉄赤字削減案に対する同年12月の白老町と札幌鉄道管理局との協定書資料より。
  2. 新白老町史 上巻 平成4年11月発行。ちなみに、改正案の段階では「竹生(ちくぶ)」であった。
  3. 「敷生」は現代読みでは「しきう」だが、当時は「しきふ」
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 新白老町史 下巻 平成4年発行 P700-702。
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 新白老町史 上巻 平成4年発行 P1483-1485。
  6. 新白老町史 上巻 平成4年発行 P1434。敷生鉱山の山元から飛生の専用線「終点」までの約6kmは架空索道(ゴンドラ)で運搬された。
  7. 距離は大正8年度 鉄道院鉄道統計資料 第10篇 監督/第5章 専用鉄道 より。

関連項目

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