秋元凉朝

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秋元 凉朝(あきもと すけとも、享保2年(1717年) - 安永4年5月25日1775年6月22日))は、江戸時代中期の大名老中武蔵国川越藩主、のち出羽国山形藩主。子は娘(阿部正陳正室)。官位は従四位下、摂津守、但馬守。は「すみとも」とも読む。隠居後は休弦と号する。

経歴

4000石を領した大身旗本秋元貞朝の三男として生まれる。寛保2年(1742年)、先代の川越藩主で一族の秋元喬求の隠居により、養子として跡を継ぐ。幕府では寺社奉行若年寄老中を歴任した。老中在職は延享4年(1747年)から明和元年(1764年)。

田沼意次との確執

涼朝は田沼意次の権勢が強まるのを不快に思っていた節があり、当時側衆の一人に過ぎなかった意次と殿中ですれ違ったとき、挨拶を欠いたのは老中に対する礼を失しているとその非礼をとがめた、というエピソードが伝わっている。

明和元年(1764年)に老中を辞任するが、田沼の権勢に対する抗議の辞任とみられ、のちに川越から山形に転封させられたのは意次による報復と見る説もある。明和3年、平賀源内を招いて川越藩は奥秩父中津峡の鉱山開発を行うが、田沼の介入を嫌い、秩父鉱山の本格的な採掘は昭和になるまで行われなかった。

明和5年(1768年)に隠居するが、養子にしていた先代・喬求の次男の逵朝が早世していたため、家督は甥の永朝に譲った。安永4年(1775年)に死去した。

経歴

関連項目


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