益田競馬場

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テンプレート:競馬場 益田競馬場(ますだけいばじょう)とは島根県益田市にあった地方競馬競馬場である。

本項では現在の益田場外発売所(ますだじょうがいはつばいじょ)についても記述する。

概要

コースは1周1000mでフルゲートは8頭[1]。日本一小さい競馬場として知られていた[1]。ただし、厩舎区画などがあったことから、競馬場全体の敷地面積では川崎競馬場より大きい。基本的に土日祝日の開催、毎年4月開幕で1月末で閉幕。2月から3月は休催であった。

馬券売り場はスタンドとは別棟となっていた。馬券はこの別棟の馬券売り場か新しく作られたスタンドでしか購入できなかった。着順掲示板はアナログの手動式であった[1]パドック京都競馬場と同じくめずらしい円形。馬場とスタンドの敷地の間には公道が通っていた[1]。また開場時から休止時まで、競馬新聞の「シーホース」が発売されていた。新聞の名前は、日本海のそばの競馬場ということから名付けられた[1]

おもにアラブ系競走馬によるレースを展開してきた。250戦出走のウズシオタロー、46勝を挙げたニホンカイキャロル、西日本アラブダービー(のちの全日本アラブグランプリ)勝利後、園田競馬に移籍して重賞6勝を挙げ「益田の怪物」と言われたニホンカイユーノスなどが過去に益田競馬場に所属した。また、当時の日本記録である350勝をあげた女性騎手の吉岡牧子、国外で活躍する日本人騎手のパイオニア的存在であった道川満彦、現在大井競馬場に所属している御神本訓史もこの益田所属の騎手であった。

1991年には頭数不足を補うため退厩期限付きでサラブレッドを一時導入、その後1997年11月からホッカイドウ競馬の3、4歳馬を導入し、さらに翌1998年の第2回開催から転入条件を緩和し、収得賞金250万円以下で出走歴のある3 - 5歳馬を転入可能とした。なお負担重量が63kgを超える上級馬はアラブ系競走に編入されるとした[2]

しかし慢性的な赤字経営や、サラブレッド導入による中央競馬 (JRA) との交流戦の開催も困難だったこともあり、2002年度で経営の改善が見込めない場合はその年で休止(事実上の廃止)する方針を決めたが、結果的には2002年8月のお盆開催を最後に休止となった。

休止後は益田場外発売所として南関東公営競馬を中心とした場外勝馬投票券発売所として活用されている。馬場は使用していないが、敷地の一部に益田市の学校給食センターを新設する構想が検討されている。

コース概要[1]

  • 右回り1周1000m、直線200m
  • 距離設定 800m、1200m、1350m、1600m、1800m、2200m(いずれもフルゲート8頭)

沿革[1]

  • 1947年 - 島根県馬事振興会によって、益田競馬場が建設される。
  • 1948年 - 島根県馬匹組合の主催で、初の益田競馬が開催される。
  • 1949年 - 新競馬法公布により、主催者が島根県県営競馬に変更。
  • 1951年 - 一時廃止。
  • 1952年3月 - 益田町(のちの益田市)の主催で再開。
  • 1991年 - 退厩期限付きでサラブレッドを一時導入。
  • 2002年8月16日 - 開催休止。

発売する馬券の種類

テンプレート:公営競技場外発売所

益田競馬場開催時

○…発売 ×…発売なし

単勝 複勝 枠番連複 枠番連単 馬番連複 馬番連単 ワイド 3連複 3連単
× × × × ×

廃止前は枠複は4Rまで、枠単は5R以降の発売だったが、末期は全レース枠単だった。また、全レース6枠制だった。

益田場外発売所

馬複・馬単・ワイド・3連複・3連単を加えた9種類全て発売。

主な競走(廃止直前)

益田で開催されていた重賞は全てアラブ重賞である。

  • 日本海特別(A級)- 年2回(夏・冬)開催
  • 益田優駿(3歳)
  • 人麿特別(B級)- 年2回(夏・冬)開催
  • 鴨島特別(A級)
  • 若鮎特別(2歳)

所属していた騎手

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 テンプレート:Cite journal
  2. 競馬ブック平成10年5月4日号 p164 列島縦断地方競馬ニュース

外部リンク

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