田宮裕

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田宮 裕(たみや ひろし、1933年1月10日 - 1999年1月12日)は、日本法学者東京大学法学部卒業。北海道大学助教授、立教大学教授、亜細亜大学教授、司法試験第二次試験考査委員(1998年まで)を歴任。

人物

専門は刑法刑事訴訟法少年法。東大助手時代は団藤重光平野龍一の指導を受けた。

田宮は、研究者としてだけではなく、教育者としても評価が高く、それは、「判例は法そのものを構成する要素であり、学説とは質的に違う。」として判例と単なる学説を峻別して、学生に判例学習の重要性を強調し[1]、自著においても、判例・通説(通説・判例ではなく)の紹介を先行させて、自説は見えるか見えないかという程度に述べるという「かくれんぼ刑訴」という表現にも表れている。かかる立場から、田宮は「高邁かもしれないがしょせんは独自としかいいようがない学説を、読者の受信能力も考えずに一方的にご託宣のたまうようでは、無意味なだけでなく、相手が初学者である場合は、情報がゆがんで届く可能性があり、有害」と述べている[2]

学説

田宮は、生涯の研究テーマとして、憲法第31条における「法律による適正手続き」を重視してデュー・プロセス論を説く。田宮は、デュー・プロセス論を憲法的刑事訴訟法論とも言い換えることができるとした上で、憲法的刑事訴訟法論は、憲法の理念と現実の刑事訴訟法の規定ないし運用の間のギャップがある場合に、合憲的に解釈・運用しようとの目的をもち、憲法によって当事者主義との訴訟の構造原理と、司法による法形成との方法原理が導かれるとして、これを基に刑事訴訟法の個々の論点を解釈した上で体系化しようと試みた[3]。かかる立場から、田宮は、判例の法創造機能を重視し、同様の立場にたつ芦部信喜憲法の変遷論における習律説を紹介しつつ、裁判所の法創造による「刑事訴訟の変遷」を説いた[4]。主要著書『刑事訴訟法』(有斐閣、新版1996年)は死去以降(実質的には新版発行以降)、現在(2011年現在)に至るまで15年近くも改訂・補訂がなされていない状況が続いている。そのため新版発行以降になされた刑事訴訟法の改正等への対応が不十分になってしまっており、後継の研究者による補訂がなされるよう、テンプレート:要出典範囲

エピソード

自著には随所にユーモアのある表現がみられ、人柄を伺う一助となっている[5]。このような人柄から、多くの人に愛され、1998年1月13日に行われた最終講義「日本の刑事裁判」には、学内のみならず学外からも小田中聰樹など著名な学者が詰め掛けた。講義終了後にはロッキーのテーマが流されたという(有斐閣『書斎の窓』編集後記より)。この講義は『立教法学』にも掲載され、ここでもユーモアのある田宮の生前の講義の様子が垣間見えるが、他にも以下のような発言をしたことがある。

経歴

  • 1954年 司法試験合格 
  • 1955年 東京大学法学部卒業、同助手
  • 1958年 北海道大学法学部助教授
  • 1968年 立教大学法学部教授
  • 1989年 法学博士(東京大学)(学位論文「一事不再理の原理」)
  • 1998年 立教大学定年退職、亜細亜大学教授

主要著書

  • 『捜査の構造』(有斐閣、1971年)
  • 『刑事訴訟とデュー・プロセス』(有斐閣、1972年)
  • 『一事不再理』』(有斐閣、1978年)
  • 『注釈刑事訴訟法』(有斐閣、1980年)
  • 『刑事手続とその運用』(有斐閣、1990年) 
  • 『日本の裁判(第2版)』(弘文堂、1995年)
  • 『刑事訴訟法』(有斐閣、初版1992年、新版1996年)
  • 『刑事法の理論と現実』(岩波書店、2001年)

脚注

  1. 「クラスルーム刑事訴訟法[第二回] 刑事訴訟法における判例と学説」(法学教室1986年11月号)
  2. 上掲『刑事訴訟法』のはしがき
  3. 上掲『刑事訴訟法』のはしがき、1~4頁
  4. 上掲『刑事手続とその運用』
  5. 例えば上掲『刑事訴訟法[新版]』の372頁「おれはアンドロメダの帝王だ」はテンプレート:要出典範囲

門下生