瑞巌寺

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参道。江戸時代には道の左右に13の塔頭が並んでいた

瑞巌寺(ずいがんじ)は、宮城県宮城郡松島町日本三景松島にある臨済宗妙心寺派の寺院である。

概要

詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)。平安時代の創建で、宗派と寺号は天台宗延福寺臨済宗建長寺派円福寺、現在の臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変遷した。古くは松島寺とも通称された。

毎年、11月第2日曜日には芭蕉が行われる。また、大晦日の火防鎮護祈祷である「火鈴巡行」と一般も撞ける除夜の鐘が有名である。

境内には、「臥龍梅」と呼ばれる紅白二本の梅の木があり、伊達政宗お手植えと伝えられている。また、参道にはシンボルとも言える杉並木があったが、2011年3月11日の東日本大震災の津波に見舞われしまい、その後の塩害によって立ち枯れが目立ったことから、約300本が伐採されることになった。

平泉中尊寺毛越寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。

歴史

天台宗延福寺

平安時代の延福寺については、南北朝時代室町時代初期の成立と思われる『天台記』が記すだけで、確かなことはわからない[1]。それによれば、延福寺は天長5年(828年淳和天皇勅願寺として慈覚大師円仁が開山した天台宗の寺であったという[2]。円仁が開いたという話は他に正嘉元年(1257年)に書かれた『私聚百因縁集』に記されている。延福寺に限らず、平安時代までさかのぼることが確実視される東北地方の古寺には、円仁の開山と伝えるところが多いが、事実ではないと考えられている[3]。円仁は関東出身ではあるが活動の舞台は中央にあった。慈覚開山とされる寺は、慈覚を名目上の開山に立て実際に開いた僧が二世以降に下がった勧請開山とも言われる[4]

『天台記』はこの寺が奥州藤原氏の保護を受け、文治2年(1186年)に藤原秀衡が死ぬと、嫡子の頼平が栗原郡を寄進したと記す。が、一郡の寄進は信じがたいし、嫡子は頼平ではなく泰衡、秀衡の没年は文治3年である[5]

また、文治5年(1189年)に源頼朝源義経を追討したとき、延福寺の僧は頼朝のために義経を呪詛したという。松島から少し離れた(あるいは松島まで含めた)陸奥国府域は、奥州合戦勃発前に奥州藤原氏に離反したと推測されており、こちらは荒唐無稽と言えないものがある[6]

寺にはまた、見仏上人にあてた北条政子の手紙と、政子が寄贈したという仏舎利が、五輪塔の形をした水晶製の容器に入れられて伝えられている。見仏は円福寺には属さず松島にいた行者である。政子の手紙は自筆ではなく、偽作でなければ後世の写しと見る説が有力である。書簡・寄贈を史実と推定する学者もいるが[7]、伝承を偽とする説も強い。たとえば、容器の形から政子没後の制作と推定し、鎌倉時代に仏舎利信仰を勧めた真言律宗叡尊の影響を見る説がある[8]

平安時代の延福寺は現在の瑞巌寺とは別の場所にあり、その位置は不明である。1992年平成4年)の瑞巌寺境内発掘調査で、9世紀の製塩炉が見つかったことから、その場所が当時寺院ではありえないことがわかった[9]。延福寺の規模は意外に小さかったのではないか、とする説もある[10]

禅宗への転換

鎌倉時代に傾倒した北条時頼は武力で天台派の僧徒を追い、法身性西を住職に据えた。『天台記』で、禅宗への転換は時頼の廻国伝説に付託して劇的に脚色されて伝えられている。それによれば、旅の僧として松島に来た時頼は、祭礼を見物して感動し、大声で祭を褒めた。それが祭を乱したとして、多数の僧徒が時頼を殺そうとした。幾人かののとりなしで時頼は亊無きをえて逃れた。時頼は岩窟で修行中の法身に出会い、天台僧を滅ぼして禅宗を広めるという密談を交わした。その後、千人の兵力を差し向けて天台宗徒を追い払い、法身に寺を委ねた。怒った天台宗の僧は福浦島に集まって時頼を呪詛し、死に至らしめたという。

以上『天台記』が記すのは、この紛争についての天台宗側の伝えとされる。禅宗側が伝える時頼は、をとりに惑う天台僧の退廃を目にして、法身と語らってから、兵を差し向けたという。この伝えは、江戸時代享保元年(1716年)に瑞巌寺103世夢庵が記した『松島諸勝記』にある。

細部はどうあれ、天台宗から禅宗への転換という骨子は諸学者に承認されているが、廻回伝説は後世のものであろう。時頼の外護は後述の「当寺雑掌景凱言上状」にも書かれているが、それについても留保する学者がいる[11]

いずれの伝でも天台宗徒は立ち退かされたことになっているが、その後も松島で活動を続けたらしく、南北朝時代に寺の支配をめぐって禅宗徒と争った。訴訟に際して禅宗の僧景凱が観応元年(1350年)に書き上げた文書が「当寺雑掌景凱言上状」で、北条時頼の外護を得て開山の法身以来15世にわたって禅宗であったことを主張して天台宗に対抗した。さらに江戸時代初めまで活動を続けたらしき事が記録に残っている[12]。しかし天台派の存在はこうした禅宗側の反応によって知られるのみで、具体的な活動内容は不明である。

臨済宗円福寺

開山となった法身性才は、で修行してから帰国した僧である。彼はしばらくして立ち去り、宋の出身で建長寺を開いた蘭渓道隆が円福寺2代目の住持になった。以後は蘭渓道隆の弟子が円福寺に住した。

臨済宗円福寺は将軍家が保護する寺社である関東御祈祷所に指定された。更に北条氏の保護を得て最初五山十刹に次ぐ諸山のうちに数えられ、後に関東十刹に昇った。当時の建築物は現存しないが、「一遍上人絵伝」で見える。平成3年(1991年)に当時の遺構の一部と多数の遺物が発掘された。他に、嘉暦元年(1326年)の雲版が伝世する。しかし、火災によって戦国時代の終わりには廃墟同然にまで衰退した。天正6年(1573年)頃、93世実堂の代から臨済宗妙心寺派に属した。

臨済宗瑞巌寺

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宝物館(青龍殿)。障壁画など重要文化財の収蔵庫および展示室。

江戸時代に入って伊達政宗が禅僧虎哉宗乙の勧めで円福寺復興を思い立ち、慶長9年(1604年)から14年(1609年)までの工事で完成させた。今に伝わる桃山様式の本堂などの国宝建築はこの時のものである。このとき寺の名を改めて「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と称した。一時住持が不在だったが、寛永13年(1636年)に雲居が入り、伊達氏の保護もあって隆盛をきわめた。この際、それまで瑞巌寺とは別個に存在した五大堂が、瑞巌寺の管理下に入った。政宗の隠しという説もある。

明治の初めに寺領が没収され、廃仏の風潮が盛んになると、収入を失った瑞巌寺は窮乏した。付属の建物が多く荒廃して失われた。明治9年(1876年)に明治天皇東北巡幸の際に下賜金があってから徐々に財政難を脱した。

大正12年9月、松島湾で捕れたの供養として地元民の寄付金で鰻塚が建立された。

昭和28年(1953年)に本堂が国宝に指定されたほか、建築物等多くの文化財を有する。昭和43年(1968年)に大書院が完成し、昭和48年(1974年)には宝物館を開設した。宝物館には発掘調査などで出土した円福寺時代の遺物など約3万点が収められている。

平成20年11月から平成30年3月(予定)まで本堂などの修理が行われている[13]

文化財

国宝

  • 本堂(元方丈)御成玄関附属
  • 庫裏及び廊下 2棟

重要文化財

  • 御成門 附:太鼓塀2棟
  • 中門 附:太鼓塀2棟
  • 五大堂 附:厨子
  • 本堂障壁画 161面、附:障壁画22面、杉戸絵20面(明細は後出)
  • 木造五大明王像 5躯 五大堂安置
  • 雲版
  • 奥州御島頼賢碑 徳治二年(1307年)一山一寧撰並びに書

拝観

  • 拝観時間
4-9月 8:00-17:00、3・10月 8:00-16:30、2・11月 8:00-16:00、1・12月 8:00-15:30
  • 拝観料
大人 700円
小人 400円

交通アクセス

脚注

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参考文献

  • 入間田宣夫「中世の松島寺」、渡辺信夫・編『宮城の研究』第3巻、中世篇II、近世篇I、1983年、清文堂出版。
  • 入間田宣夫「古代・中世の松島寺」、松島町史編纂委員会『松島町史』通史編2、1991年。
  • 河田貞「瑞巌寺蔵水晶六角五輪塔仏舎利容器について」、『東北歴史博物館研究紀要』1、2000年。
  • 佐々久「仏教史」、『宮城県史』第12巻(学問宗教)、宮城県史刊行会、1961年。復刻版はぎょうせいの発行で1987年。
  • 新野一浩「瑞巌寺境内遺跡とその周辺」、東北中世考古学会『中世の聖地・霊場』高志書房、2006年、ISBN 4-86215-017-9。
  • 七海雅人「霊場・松島の様相」、東北中世考古学会『中世の聖地・霊場』高志書房、2006年、ISBN 4-86215-017-9。
  • 堀野宗俊『瑞巌寺の歴史』、瑞巌寺、1997年。
  • 舘隆志「一山一寧撰「頼賢の碑」と松島瑞巌寺」、『禪學研究』84、2006年。

関連項目

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外部リンク

  • 入間田宣夫「古代・中世の松島寺」1頁。
  • 堀野宗俊『瑞巌寺の歴史』8頁。
  • 堀野宗俊『瑞巌寺の歴史』8頁。
  • 佐々久「仏教史」、『宮城県史』12巻。
  • 七海雅人「霊場・松島の様相」52頁。
  • 入間田宣夫「古代・中世の松島寺」2頁。七海雅人「霊場・松島の様相」52-54頁。
  • 入間田宣夫「古代・中世の松島寺」19頁
  • 河田貞「瑞巌寺蔵水晶六角五輪塔仏舎利容器について」10-11頁。
  • 新野一浩「瑞巌寺境内遺蹟とその周辺」121頁。
  • 堀野宗俊『瑞巌寺の歴史』9-10頁。
  • 入間田宣夫は単に「時頼のころ」とし、河田貞は時頼に「仮託されうるいずれかの勢力」を見るに留める(「瑞巌寺蔵水晶六角五輪塔仏舎利容器について」11頁)。
  • 堀野宗俊『瑞巌寺の歴史』26頁。
  • 瑞巌寺「平成の大修理」