物言い

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土俵での行司・勝負審判・控え力士配置
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協議の様子

物言い(ものいい)とは、大相撲において、行司が下した判定(軍配)に対し、勝負審判や控え力士が異議を唱えること。またそれから転じて、異議を申し立てること全般を「物言いをつける」ともいう。

概説

対戦(取組)後の行司軍配に異議のある(ほとんどは、両者の体勢が微妙な状態での決着など)場合、勝負審判は、即座に手を挙げることによって意思表示をする。その後5人の勝負審判が土俵上で協議を行う。この際、ビデオ室と連絡を取り、ビデオ映像も参考にする。協議が合意に達すると、行司の下した判定の如何を問わず、改めて勝負の結果が審判長から発表される。

多くの場合は、体が落ちる、あるいは土俵を割る瞬間が同時(同体)として、勝敗の決定をせず、取り直し(再試合)となるか、そのまま行司軍配通りの結果となるが、稀に行司の軍配と逆の結果となる場合もあり、このケースは行司差し違え(もしくは行司軍配差し違え)という。なお、行司は必ずどちらかに軍配を上げねばならず、同体という判定は行司にとっては存在しない。また行司は禁じ手の有無を判断することは出来ない。

また、土俵下に控えている現役力士も、物言いをつけるための挙手をする事が出来る。審判委員は控え力士から物言いが出た場合、必ず土俵上で協議を行わなければならないが、その控え力士自身は協議に参加することは出来ない。なお、行司は取組の状況を述べる以外は協議に参加できない。

審判長から協議内容の説明の際、十両以上の取組の場合は四股名を用いて説明を行うが、幕下以下の場合は原則として四股名ではなく「東方力士」「西方力士」と呼ばれる事が有る。また「只今の協議は確認のための物言いでありまして、軍配どおり○○の勝ちといたします。」と説明する時もある。

アマチュア相撲においては「異議申し立て」という。控え力士に物言いの権利のないことや、大会にもよるが、ビデオ判定は用いられないことなどを除き、形態は大相撲とほぼ同じである。

この大相撲の「物言い」は複数の元一流選手が審判の判定をチェックするため、場外に控えているシステムはあまり他のスポーツには例の無いものである。

ビデオ判定

大相撲にビデオ判定が導入されるきっかけは、1969年3月10日の3月場所2日目、横綱大鵬前頭筆頭・戸田の一番だった。土俵際に追いつめられ回り込む大鵬を追ううちに戸田の右足が俵を踏み越え、ほぼ時を同じくして大鵬の体が土俵を割った。22代式守伊之助の軍配は大鵬にあがったが、審判より物言いがあり協議をした結果、大鵬が先に土俵を割ったという結論(審判長の春日野(元横綱栃錦)以外の4人が戸田の勝ちを支持)になり、行司差し違えで戸田の勝ちとなった。しかし、この時の中継映像では戸田の足が先に出たように見えた。大鵬がここまで45連勝していたこともあり、この一番の判定は「世紀の大誤審」と騒がれた。

これを受けて、日本相撲協会は目視による判定を補う方法について検討し、次の5月場所よりビデオ判定を導入することになった。

問題点として、実際にビデオ室で再生映像を確認する者と、協議を行う審判員が別であるため、どちらが先に土がついたかだけが重視され、相撲の流れや生き体、死に体の区別などがないがしろにされがちなことがあげられる。また、明らかな誤審であっても物言いがつかなければ、ビデオが参考にされることはなく、ビデオ室係が行司の軍配に疑問を持っても、物言いをつける権限はない。

勝負審判の判定が物議を醸した例は、以下の通り。

場 所 判 定 事 柄
1972年(昭和47年)1月場所8日目 北の富士 - ●貴ノ花 中日結びの一番において、横綱北の富士関脇貴ノ花戦では、右からの外掛けを仕掛けた北の富士に対して貴ノ花が仰向けで土俵に倒れる直前、北の富士の右手が早く土俵に着いた為、行司の25代木村庄之助は貴ノ花に軍配を挙げた。しかし審判委員から物言いが付き、北の富士の右手が「つき手」か「かばい手」か、さらに貴ノ花が「生き体」か「死に体」かで5分間も掛かる大物言いとなる。協議の結果、審判委員らは北の富士は「かばい手」で貴ノ花は「死に体」と判断され、行司差し違いで北の富士が浴びせ倒しで勝利に。しかし、打ち出し直後にNHK総合テレビ大相撲中継を見ていたファンなどから日本相撲協会に対して抗議の電話が殺到し、物議を醸す結果となってしまった。さらに25代木村庄之助は慣例となっている進退伺いの提出を拒否して謹慎処分を受け、翌3月場所直前で廃業となった。
1980年(昭和55年)9月場所7日目 ●貴ノ花 - ○高見山 大関・貴ノ花-前頭5枚目・高見山戦では、両者土俵際の投げの打ち合いとなり物言いが付いたが、貴ノ花のの方が先に土俵に着いたと判断され高見山の勝利となる。しかし「投げの打ち合いで頭髪が瞬時早くついた場合には負けにならない」という勝負規定からすると判定が疑問視された。
1986年(昭和61年)5月場所8日目 北尾 - ●小錦 本場所の中日、大関北尾(のち横綱双羽黒)-関脇小錦戦では、小錦が倒れる前に北尾が先に土俵を割ったかに見えたが、協議の結果「両者同体取り直し」に。しかし取り直しの一番は、北尾の鯖折りで勝利したものの、この相撲で小錦は右膝を大怪我をしてしまい、小錦は翌日から2場所連続休場(当時公傷が適用された)となった。所謂「鯖折り問題」である。
1989年(平成元年)5月場所千秋楽 北勝海 - ●大乃国 千秋楽結びの一番(本割り)での横綱同士・大乃国北勝海戦では、北勝海が肩透かしで大乃国を下す直前で、北勝海の手が土俵を掃いたのでは?と思われる場面があった。しかしその場面を審判委員らは5人共に誰も気付いておらず、物言いも全くつかないまま北勝海の勝利となる。その後北勝海が優勝決定戦に進出、大関旭富士に勝利して幕内優勝となったが、この一番でもし大乃国の勝利となれば、大乃国の方が旭富士との優勝決定戦進出となるはずであった。
1993年(平成5年)5月場所千秋楽 若ノ花 - ○小錦 これより三役の一番で、両者共土俵際で投げの打ち合いとなったが、大関小錦の方が明らかに先に右手を着いて落ちていたのにもかかわらず、小錦の投げの有利と判定され、さらに関脇若ノ花(のち横綱3代若乃花)の死に体と見て若ノ花の負けにされ、物言いもつかなかった一番となる。しかし、当時の鏡山審判部長(元横綱・柏戸)は自ら「あの相撲は物言いをつけるべきだった。全て私のミスです」と責任を取り、千秋楽の翌日に審判部長の辞表を提出するという事態にまで発展してしまった(結局即辞表とはならず)。
2003年(平成15年)1月場所2日目 雅山 - ○貴乃花 結びの一番、元大関で当時前頭筆頭の雅山は横綱貴乃花に対し、土俵上で鮮やかな二丁投げが決まったかに見えた。行司の軍配も雅山に挙がるが審判委員から物言いがつき、同体で取り直しに。取り直しの一番は貴乃花が上手投げで勝利したが、この結末に視聴者から相撲協会に「雅山が勝っていたのでは」という抗議の電話やメールが殺到する事態となる。負けた雅山は、翌3日目結びの一番で当時大関・朝青龍との取組で、前日に負傷した右足首の怪我を悪化させて4日目から途中休場。一方勝った貴乃花は、雅山に二丁投げを食らった際左肩を痛め3日目から途中休場するも、5日目から再出場。しかしその後も本来の相撲が全く取れないまま、貴乃花は同1月場所9日目で現役を引退した。
2004年(平成16年)7月場所8日目 ○朝青龍 - ●琴ノ若 中日結びの一番で、横綱・朝青龍と前頭2枚目・琴ノ若戦では、琴ノ若が朝青龍の下敷きにならないように手をついたが、物言いがつき同体取り直しとなった。取り直しの一番は朝青龍が勝利に。しかし朝青龍の方が既に「死に体」で、琴ノ若は「かばい手」では無かったか?という見方が多く、又日本相撲協会にも抗議の電話やメールが殺到した。所謂「死に体・かばい手問題」である。
2012年(平成24年)9月場所初日 魁聖 - ●把瑠都 本場所初日、大関・把瑠都と前頭筆頭・魁聖戦で、把瑠都は魁聖の寄りに後退するも西土俵際で左上手投げ。魁聖が先に左手を着きながら土俵下に落ちたように見え、さらに把瑠都の左足は俵の上に残っていた。だが三役格行司の4代木村正直は軍配は魁聖に挙げ、勝負審判5人全員も物言いがつかず魁聖の勝利に。この取組後ビデオ映像を見たNHK解説者の北の富士(元横綱)は「これは明らかな『誤審』だ」、同解説者の舞の海(元小結)も「物言いは必ず付けるべき」とコメント。尚鏡山審判部長(元関脇・多賀竜)は「流れは完全に魁聖で、把瑠都の体も半分出ていた。ビデオが無いからその場で判断しなければいけない」と弁明したが、北の湖理事長(元横綱)は「ビデオ室との確認位はすべきだった」と、審判団に苦言を呈していた。
2012年(平成24年)11月場所9日目 豪栄道 - ○日馬富士 結び前の一番、前日迄8戦全勝の関脇・豪栄道と1敗の横綱・日馬富士戦で、向正面に豪栄道が寄って出る所、土俵際「日馬富士の左足が出た」と判断した赤房下の湊川審判委員(元小結・大徹)が挙手したため、立行司の39代式守伊之助は慌てて二人の背中を叩き取組を中断[1]。軍配を挙げないまま審判団の協議に入った[2]が、鏡山審判部長は「向正面の(湊川)審判が日馬富士の足が出たと勘違いし、手を挙げてしまいました[3]。従ってもう一度『やり直し』という形でやらせて頂きます」とマイクで説明。大相撲史上「誤審」を認めた前代未聞の“取り直し”の裁定だったが、その一番は日馬富士が勝利。敗れた豪栄道は「負けは負けですから」と無難なコメントに終始するも、取組後鏡山審判部長らは八角広報部長(元横綱・北勝海)を通じ、北の湖理事長から「しっかりやるように」との通達を受けていた。

※「判定」欄の「○」は勝ち、「●」は負けを、また、左は東方、右は西方を示す。

エピソード

近代相撲以前

  • 講談などでは、寛政時代雷電小野川の取組で、雷電の寄りを土俵際こらえた小野川が必死に残すも軍配は雷電、しかし小野川を抱える久留米藩藩士が小野川がうっちゃったであろうと刀に手をかけ、土俵に駆け上って物言い、行司はいさいかまわず凛然と「雷電ン~!」と勝ち名乗りをあげ、観客の喝采を得るという話があった。これ自体は全くの創作だが、こうした強引な物言いは当時決して少なくなく、江戸の庶民も腹に据えかねていた。
  • 1789年(寛政元年)11月場所6日目、角界史上初の横綱(番付上は大関)披露を翌日に控えた関脇小野川は前頭2枚目関ノ戸と対戦。小野川がちょっとしたはずみで左膝をつき、関ノ戸の勝ちとなるところを強引な物言いがついて勝負預りとなった。関ノ戸にとっては不運であったが、小野川の横綱披露に差し障りがあるため、無理難題な物言いだったとされている。

明治時代

  • 1877年頃、幕下和田ノ森-淀川戦は仕切り直し四十数回。しびれを切らした勝負検査役が勝負預りにしようとしたが、ある検査役の「仕切る姿が和田ノ森の方が良かった」という提案で和田ノ森の勝ちと決まった。
  • 1895年6月場所6日目、前頭筆頭鳳凰-横綱初代西ノ海戦。8代式守伊之助は西ノ海に踏み切りありと鳳凰に軍配を挙げたが物言い。西ノ海の師匠・初代高砂取締が役員室から出てきて、踏み切ったかかとの跡のある砂を掘り「この通り、砂を払えば下は俵だ。踏み切りはない」とゴリ押し。正取締(現在の理事長職)の剣幕に押されて検査役の意見はまとまらず、深夜遅くになって協会預かりと決まった。結局、3人の検査役が辞任、伊之助が3日間謹慎ということで表面を取り繕ったが、西方力士がこれで収まるはずはなく、翌1896年1月の高砂追放事件(「中村楼事件」)に繋がった。
  • 1897年1月場所8日目、大関鳳凰-横綱小錦戦。左四つから同体、15代木村庄之助は軍配を鳳凰に挙げたが物言い。観衆は布団や火鉢を投げ、土俵近くに群がり、小錦のファンであった歌舞伎役者の中村勘五郎は土俵の真ん中に大の字に寝て「預かりにしなければ、死んでも土俵を降りない」と叫んだ。結局は預かりと決まったが、そのときはすでに鳳凰が帰宅した後だったので、人を迎えに走らせたりするうち、日もとっぷりと暮れて回向院の場内に提灯をたてて気発灯に点火、両力士が土俵に上がって勝負預かりとなったのは、相撲が終わって実に8時間後だった。
  • 1905年1月場所5日目、前頭筆頭太刀山小結駒ヶ嶽戦で、駒ヶ嶽の寄りを太刀山はこらえきれず土俵下へ転落した。このとき太刀山の投げ出した足が、土俵下で控えていた行司木村瀬平を直撃した。瀬平は後ろにひっくり返り苦しんだが、際どい勝負のため検査役から物言いがついた。1時間に及ぶ協議の末「勝負預かり」となった。この間に元気を取り戻した瀬平は、次の一番を無事に裁いたが、6日目、7日目と大事を取って休場、8日目より再出場した。ところが9日目の朝、自宅の布団の中で急死。太刀山に押し潰されたことが原因による心臓麻痺だった。
  • 1906年1月場所4日目、小結初代朝汐-前頭3枚目若左倉戦。両者立ち上がるや、若左倉が猛然と張り手の雨あられ、それも真っ向から張りまくる。朝汐も憤然と応戦し、土俵上は殺気立った。その時行司木村小市(のち2代木村誠道12代式守伊之助)は「勝負あった」と両者の間に割って入り、軍配を朝汐に挙げた。小市は「張り手は、協会において厳禁とするところなり」と宣言し、朝汐に勝ち名乗りを上げた。従って若左倉の反則負けとなったが、物言いがつき、検査役より「越権行為だ」とか「なぜ勝ち名乗りを上げたのか」と小市を追求する中「行司の態度は当然」との意見もあった。協会から「正面からの張り手」「拳固にて打つこと」の厳禁の触れが出たばかりで、その矢先だった。まだ規則に不徹底だったため、裁きが決まらぬまま「協会預かり」にした。のちに協会は「行司の行為は独断であり、勝ち名乗りは検査役を無視した越権行為」と行司の責任だったとした。小市は進退伺いを提出したが慰留され、判定は引き分けで決着した。

大正時代

  • 1914年5月場所5日目、関脇2代朝潮-前頭11枚目金ノ花戦。金ノ花の突っ張りに後退した朝潮が上から叩きながら土俵を割った。行司の軍配は朝潮に挙がったが、西方控えの横綱太刀山から「朝潮に踏み切りあり」と物言い。東方控えの前頭8枚目綾川は朝潮の勝ちを主張、検査役も意見が割れて決着がつかず、2時間後検査役たちは「協会の二階で協議する」と土俵を去り空白にして意見を闘わす間、土俵周辺は怒声罵声の渦、ついには土俵上に上がって演説する男が現れたりして大混乱。この場所休場していた常陸山2代梅ヶ谷の両横綱も駆けつけ、3時間40分後「とりあえず勝負は常陸山と梅ヶ谷が預かり、のちに発表する」と決めて、その後の取組を進め、物言いから5時間20分後の午後9時40分、朝潮の丸星、金ノ花の半星、勝負預かりで何とか決着した。
  • 1921年5月場所5日目、横綱大錦-前頭5枚目鞍ヶ嶽戦。大錦が寄ると鞍ヶ嶽が左へうっちゃり17代木村庄之助は鞍ヶ嶽に軍配を挙げたが物言いがつき、検査役、控え力士とも鞍ヶ嶽の踏み切りを認めたので、行司差し違えとなった。庄之助は打ち出し直後「本日の失態は本来なら切腹すべきところ」と、辞表を友綱取締(元前頭海山)に提出。協会役員、大錦、鞍ヶ嶽らの慰留に応ずることなく、53年間務めた相撲界を去った。

昭和時代

  • 1929年1月場所5日目、関脇玉錦-前頭筆頭真鶴戦。真鶴がもろ差しで、玉錦が閂(かんぬき)にきめる。膠着状態が続き2度水入り、3番後取り直しの相撲が制限時間10分を経過した。再戦は両者の呼吸が合わず、検査役が真鶴に注意した。真鶴はこれを不服とし支度部屋へ引き揚げてしまった。周囲の説得もあり、呼び戻された真鶴は玉錦と取り直し、玉錦が勝利した。
  • 1938年1月場所9日目、横綱双葉山-関脇両国戦。48連勝中の双葉山が寄り切った相撲に、控え力士の玉錦、男女ノ川から双葉に勇み足ありと物言いがつき揉めに揉めた。双葉山の69連勝が48で止まっていたかもしれない歴史的物言いと語り継がれる。結果は、取り直しの末双葉が吊り出しで49連勝。現存する写真では双葉山の右足は大きく踏み越しているが、その前に両国の体は完全に死に体だった。
  • 1941年5月場所14日目、横綱双葉山-大関前田山戦は双葉山の「勇み足」か「送り足」かで紛糾、観客の怒号が飛び交う中協議が続き、意見がまとまらず32分間の中断だったが、双葉山の「取り直しましょう」の一言で協議の末取り直しとなり、双葉山が勝利した。
  • 1948年10月場所6日目、横綱前田山-小結力道山戦。前田山は行司の軍配を受けながら取り直しの判定が不服で、指の負傷を理由に支度部屋へ引き揚げたため、「取り直し」でも「痛み分け」でもなく取組放棄とみなされ、力道山の不戦勝となった。
  • 1951年9月場所12日目、横綱東富士-大関吉葉山戦は2度の物言いがついた。最初の取組は東富士に軍配が挙がったが、協議の結果は同体で取り直し。取り直しの一番は左四つがっぷりで膠着状態が続き水入り。再開後、吉葉山の一気の寄りに東富士が土俵際で捨て身のうっちゃりを見せた。吉葉山に軍配が挙がるも物言いがつき、協議の結果またも同体。実はこの日、東富士は風邪をこじらせ40度の高熱だったが、無理を押して出場。3度目の取り直しになろうかと言うところ、東富士はまだ取る意思を見せるが検査役がこれ以上の取組は危険と判断し、吉葉山の同意を得て勝負預かりとなった。
  • 1953年1月場所6日目、物言いの協議結果を初めて場内放送で説明した。
  • 1954年9月場所7日目、関脇大内山-前頭筆頭出羽錦戦。大内山は出羽錦の食い下がりを警戒して、長い腕でのど輪を押し上げて攻める。のけぞりながら出羽錦は何とかもろ差しの体勢になり、右ふところに食いついた。これを嫌って大内山は詰まりながら右から小手を抱え、大きく小手投げを打つと、出羽錦の左ひざが折れて砂に触れたか触れないか微妙なところで、行司13代木村庄太郎は「勝負あり」と軍配を大内山に挙げた。軍配を見た大内山は当然のように力を抜く。軍配を見ていない出羽錦はそのまま大内山を寄り切った。勝ったと思った出羽錦はそのまま西方の二字口に立った。そのとき行司溜まりの西岩検査役(元前頭鯱ノ里)が物言いをつけ「出羽錦につきひざはない」と主張。立浪(元横綱羽黒山)、湊川(元前頭十勝岩)、出来山(元大関汐ノ海)の3者とも同意見、正面の検査長時津風(元横綱双葉山)は泰然と座ったまま。協議の結果「取り直し」が妥当と判断したが、時津風の裁定は大内山が小手投げを打つ体勢から再開する「組み直し」という奇妙な結論に達した。再開後、大内山がうっちゃりで勝ったが、後味の悪い一番となった。この時詰め腹を切らされたのは行司庄太郎で、翌8日目より謹慎となった。同様の前例として1941年5月場所13日目、大関前田山-関脇照國戦がある。
  • 1958年1月場所6日目より、勝負検査役は物言いの協議にワイヤレスマイクを使用することにした。
  • 1958年9月場所初日、前頭7枚目北の洋-横綱栃錦の物言いで立行司19代式守伊之助が土俵を叩いて自分の軍配の正当性を主張した。いわゆる「ヒゲの伊之助涙の抗議」である。なお、この北の洋-栃錦戦の一件で、次の1958年11月場所より物言いに行司も検査役の協議に加わり発言できるようになった。
  • 1964年5月場所4日目、序ノ口高見山-吉瀬川戦。吉瀬川は足の大きさ18の巨漢だが気が弱く、怖くなって立ち上がるといきなり後ろを向いて逃げ出し土俵外へ、勝負検査役は「待った」と見なしてやり直し。再び逃げ腰の吉瀬川を高見山は優しく押し出した。
  • 1964年9月場所3日目、横綱大鵬-前頭3枚目若浪戦の勝負判定などで時津風理事長が全勝負検査役を叱責。これを機に勝負検査役は幹事制を設けることとなった。
  • 1964年11月場所12日目、前頭11枚目荒波-同5枚目海乃山戦で、荒波が海乃山のマゲをつかむ反則を犯したが、行司軍配は荒波に挙がり反則ながら勝ちとなった。この一番で湊川(元前頭十勝岩)検査長の処置が不適切と、取締会がこの場所に限り湊川を譴責処分とした。
  • 1965年1月場所より物言いは携帯マイクをやめて、正面の検査役が経過説明をすることになった。
  • 1966年11月場所4日目、小結琴櫻-前頭2枚目禊鳳戦。禊鳳が一気に寄ると、琴櫻が東土俵際で捨て身の小手投げ。2人はほぼ同体で倒れたが、行司4代木村玉治郎(のち27代庄之助)は琴櫻の負けと判断、禊鳳に軍配を挙げた。しかし物言いがつき協議の結果、行司差し違えで琴櫻の勝ち。25代庄之助も「禊鳳が先に落ちている」と玉治郎の差し違えを認めた。しかし検査役の物言いに公平さを欠くような場面があった。東土俵で勝負がついたにもかかわらず、最初に物言いをつけたのは、西の佐渡ヶ嶽検査役(元小結琴錦=琴櫻の師匠)。さらに、藤島検査役(元前頭出羽湊)は、一番勝負の見える場所にいながら、部屋の弟子である禊鳳の勝ちを主張した。
  • 1967年11月場所9日目、前頭筆頭長谷川-横綱佐田の山戦。佐田の山の廻しがほどけたため、立行司の22代式守伊之助が、両者の背中を叩いて「廻し待った」で両者の動きを止めようとしたが、佐田の山が気づかずに長谷川を吊り出した。物言いがつき協議の結果、「廻し待った」をかけた時の体勢から取り直し、佐田の山が勝利した。しかし再開前と再開後の長谷川の差し手が変わっていた。「廻し待った」がかかった時点での佐田の山の差し手は「左差し」だったが、再開時には「もろ差し」の体勢になっていた。長谷川は組み手の違いを主張せずに敗れた。取組後、伊之助は「差し手が見えなかったので二子山(元横綱初代若乃花)、岩友(元前頭神東山)両検査役に聞いたところ(佐田の山の)もろ差しと言ったので」と弁明した。差し手を確認せず「廻し待った」をかけた伊之助にも非はあるが、長谷川自身にも問題があった一番だった。
  • 1968年9月場所初日、十両最初の和晃朝嵐戦。制限時間いっぱいから朝嵐が土俵内に落ちていた箒の切れ端を捨てるために土俵外に足を踏み出して負けにされた一番。陣幕審判長代行(元前頭島錦)の説明は「制限時間後土俵外に出たのは勝負規定違反なので、和晃の勝ちとします」だったが、実際にはこう言う規定は制定されていない。
  • 1968年11月場所13日目、前頭2枚目明武谷-同3枚目若浪戦。若浪の土俵際のうっちゃりで4代木村玉治郎(のち27代庄之助)は若浪に軍配を挙げたが物言いがつき取り直しとなった。取り直しの一番も若浪のうっちゃりに玉治郎は軍配を挙げたが、またも物言いがつき取り直しとなり、明武谷が若浪を吊り出しに破り決着。両者は疲労困憊のためいったん土俵外へ降りたが、共に健闘を讃えて笑顔で握手し土俵上の二字口に戻った。
  • 1970年7月場所12日目、前頭5枚目黒姫山-同8枚目大雄戦で、行司が即退場処分を受けるという前代未聞の珍事が起きた。制限時間いっぱいから黒姫山が立つと、大雄は一瞬「待った」という仕草を見せたが、そのまま力を入れ直し右を差した。ところが「待った」と思った黒姫山が力を抜いてしまい、そのまま大雄が寄り切った。この間、行司2代木村今朝三は完全に棒立ち、「待った」も「ハッケヨイ」の声も発しなかった。5人の審判員は協議の末、今朝三を即刻退場処分とした。審判規定行司の項第7条「両力士が立ってからは、“待った”または“ハッケヨイ”の声をなす」の職務を怠ったためだった。この一番は取り直しとなり、代わりに4代木村玉治郎(のち27代庄之助)が裁き、大雄が勝利した。今朝三は処分後「声を出したが、小さかった」と弁明したが意気消沈していたという。
  • 1972年3月場所7日目、横綱北の富士と前頭筆頭貴ノ花の結びの一番で22代式守伊之助の軍配は北の富士に挙がったが、北の富士に勇み足ありとして行司差し違えで貴ノ花の勝利。この両者は前場所も北の富士の“つき手”か“かばい手”かを巡って揉めた一番を取っており、二場所連続同じ顔合わせで立行司が差し違えの珍事となった。なお伊之助はこの場所12日目の関脇長谷川-大関大麒麟戦においても差し違えており、伊之助は進退伺いを提出したが、場所前に25代木村庄之助が廃業しており、立行司不在の場所は前例がないため、翌13日目の1日のみ謹慎となった。この一番、貴ノ花は土俵際膝も腰も伸びきってかかと立ちの状態で、25代庄之助は「先場所(1972年1月場所)の貴ノ花が死に体だったというなら、今場所の貴ノ花がなぜ生き体になるのか」と憤慨したという。
  • 1972年9月場所6日目、前頭3枚目旭國-関脇輪島戦で、立合い輪島が押して出たところを低い姿勢の状態で旭國が若干遅れて「待った」をしたが、輪島がかまわず押したため旭國が右手をついた。行司3代木村正直(のち24代伊之助)は輪島に軍配を挙げたが物言いがついた。旭國のあいまいな立合いに審判部は、両者を土俵上に呼び上げて事情聴取するという前代未聞の協議となり、協議の結果取り直しとなった。勝負は輪島の勝ち。
  • 1974年11月場所7日目、前相撲の椰子ノ島-壇上戦。行司の軍配は壇上に挙がったが、物言いがついてトンガ王国出身の椰子ノ島の勝ちと決まり、陣幕審判(元前頭島錦)が「ただいまの勝負は行司差し違えで、トンガ王国の勝ちと決まりました」と説明して館内爆笑となった。陣幕審判は時々観客に面白い説明をすることがあり「残念ながら踏み越しがあり、東方の勝ち」と説明したこともあった。
  • 1975年7月場所初日、横綱北の湖-小結高見山戦。立行司26代木村庄之助は北の湖に「はき手あり」とみて高見山に軍配を挙げたものの物言いがついた。しかし土俵上にははき手の跡がなく取り直しとなり、北の湖が寄り切って勝ったが、後味の悪い一番となった。
  • 1975年7月場所12日目、序二段増の里-富士嵐戦。立合い富士嵐の変化に前へのめった増の里が手をつきかかったところで、行司木村玉男は軍配を富士嵐に挙げたが、増の里はなんと前方空中回転して立ち、再び戦闘態勢をとった。ここで物言いがつき、取り直しとなり、外掛けで増の里が勝った。
  • 1976年7月場所、7日目の関脇荒勢-前頭2枚目金城戦と8日目の荒勢-前頭筆頭若三杉戦で時間いっぱいから、ともに6回の「待った」があり、勝負審判全員が土俵に上がって協議、両力士に注意するという場面があった。
  • 1980年11月場所13日目、佐ノ山審判(元小結國登)が酒に酔って審判を務めたため解任された。
  • 1988年5月場所初日、前頭11枚目霧島-同13枚目水戸泉戦で3度同体の混戦の末、4度目に水戸泉が霧島を寄り倒し決着した[4]。なお、4度目の取組も、行司7代式守錦之助は水戸泉の寄り倒しに軍配を挙げたが、霧島がうっちゃりを打ちもつれ合う形での決着となった。

平成時代

  • 1994年1月場所14日目、前頭4枚目琴富士-同5枚目小城錦戦で物言いがついたが、鏡山審判長(元横綱柏戸)の場内説明は「小城錦」ではなく終始小城錦の実兄の「小城ノ花」だった。
  • 1994年5月場所5日目、三段目雷王-竜風戦で4度の物言い、5度も取り直すという一番があった。最初は投げの打ち合いで雷王の上手投げ、2度目は雷王の押し、3度目は竜風の寄り倒しにそれぞれ軍配が挙がったが、そのたびに物言いがつき3番とも取り直し。4度目は竜風が寄り切ったかに見えた時、行司木村圭吾は「勇み足」とみて軍配を雷王に挙げた。ここで館内は「(また)取り直せ!」との大コールと言う珍事も起こった。その館内の観客の期待に応えた八角審判長(元横綱北勝海)の説明は「足が出るのと、体が落ちるのと同時とみて…」5度目の取り直しとなり観客は大喝采。疲労困憊の両力士だったが、最後の6度目は竜風が雷王を寄り倒して決着した。
  • 1995年7月場所6日目、序二段の冠甲-琴坂口戦。琴坂口が上手投げで勝ち、行司木村誠二(現3代木村光之助)はためらうことなく軍配を東の琴坂口に挙げたが、誤って西の冠甲に勝ち名乗りを上げてしまい、場内決まり手係もそれに釣られて「上手投げで冠甲の勝ち」と放送した。物言いがつき、結局行司差し違えとなり、琴坂口に勝ち名乗りを上げ直させた。
  • 1996年1月場所9日目、小結土佐ノ海-前頭筆頭貴闘力戦。当たり合ったあと、貴闘力は左からいなし、残した土佐ノ海が頭を下げて一気に出てくるところを強引に叩き込んだ。土佐ノ海は右手から落ち、貴闘力も右足から土俵を割り微妙だったが、行司8代式守勘太夫(のち30代伊之助)の軍配は土佐ノ海に挙がった。その直後、5人の審判員よりも真っ先に、東の控えに座っていた現役大関の貴ノ浪が、すかさず手を挙げ物言いをつけるという異例の事態が起こった。協議の結果は、勘太夫の差し違えで貴闘力の勝利となった。
  • 1996年5月場所8日目、結びの横綱-関脇貴闘力戦。貴闘力が飛び出すより、曙の左足が一瞬早く土俵外へ踏み越したため、立行司29代木村庄之助は貴闘力に軍配を挙げたが、ここで物言いがついた。佐渡ヶ嶽審判長(元横綱琴櫻)は貴闘力に軍配が挙がっているのに「曙の足が先に出たのでは、と物言いがつき…」と矛盾した説明だった。勝負は「引き落とし」で貴闘力の勝ちだったが、協会発表の決まり手(勝負結果)は曙の「勇み足」だった。
  • 1996年9月場所7日目、序二段の取組で勝負がついていないのに、行司が相撲を止めてしまうハプニングがあった。福山-藤川戦で、もろ差しになった藤川が土俵際まで寄って、福山が俵に足が掛かってこらえているとき、行司木村保之助が「勝負あった」と大声を上げ藤川に軍配を挙げようとしたが、すかさず土俵下の審判から「(足は)出ていないぞ」と声が上がり物言いとなり、協議の結果取り直しとなった。取り直しの一番は、いったん負けとなった福山が上手投げで藤川を破った。取組後保之助は「恥ずかしい。行司を辞めてしまおうかと思いました」と意気消沈。
  • 1999年1月場所8日目、物言いがついた取組で審判長が説明の際、2度も力士の四股名を言い間違えた。十両の大善舞の海戦で、佐渡ヶ嶽審判長(元横綱琴櫻)が舞の海を「智乃花」と間違えた。さらに同審判長は「智乃花」と3回も言い間違え、館内から失笑とブーイング。中入り後の前頭14枚目金開山-同10枚目五城楼戦では、九重審判長(元横綱千代の富士)が、五城楼を「若ノ城」と言い間違えた。
  • 1999年5月場所2日目、横綱3代若乃花-前頭筆頭琴乃若戦。若乃花の掬い投げに、土俵際で琴乃若が上手投げを打ち返した。誰もが若乃花の絶対不利と思ったが、立行司29代式守伊之助は若乃花に軍配を挙げた。この場合は物言いがついて当然とされる一番だったが、審判員は誰も手を挙げようとはせず、館内は騒然となり、また琴乃若がなぜ負けたのかも勝負判定の説明もなかった。
  • 1999年7月場所7日目、前頭5枚目蒼樹山-同8枚目朝乃翔戦。朝乃翔が突き勝って出るところ、蒼樹山が右に変わっていなした時、左手が朝乃翔のマゲに引っかかり思わず引いてしまい、朝乃翔が残るところを右おっつけ左ハズから押し出した。行司木村咸喬(のち32代庄之助)は蒼樹山に軍配を挙げたが物言い。佐渡ヶ嶽審判長(元横綱琴櫻)は「蒼樹山がマゲを引っ張ったが、マゲを引っ張ったことで勝負がついたのではないので、軍配通り蒼樹山の勝ち」と決まった。朝乃翔は4日目、前頭10枚目旭天鵬にもマゲを捕まれていて、この時は相撲にほとんど関係なかったが、「今日(蒼樹山戦)の方が長くマゲをつかまれていた」とぼやいていた。その4日目の取組の後、師匠の若松親方(元大関・朝潮)から「今度マゲを引っ張られたら、土俵に手をついてしまえば反則勝ちになる」とアドバイスを受けていたが、実践できぬまま敗れた。
  • 2003年3月場所8日目、前頭10枚目武雄山-同12枚目金開山戦で物言いがついたが、マイクが接触不良で音声が途切れるハプニングが起きた。機転を利かせた二子山審判長(元大関貴ノ花)が西方花道脇の場内放送席まで行って場内説明した。
  • 2004年1月場所14日目、前頭9枚目琴龍-同14枚目武雄山の取組に物言いがつき、九重審判長(元横綱千代の富士)が場内説明する際、武雄山の名を忘れ「えーと何だっけ」と発言した。なお九重の場合、取り直しの発表の際にいきなり「もう一丁!」とだけ言うなど、いくつかのエピソードを持っている。
  • 2005年5月場所7日目、十両の琴春日-五城楼戦で、五城楼が同体取り直しの一番を取れず不戦敗になるハプニングが起きた。軍配は五城楼の突き落としに挙がったが物言い。琴春日の左肘と五城楼の右膝のつくのが同時で取り直しとなった。しかし五城楼は右膝を負傷し、相撲を取ることが出来ず不戦敗になった。一方の力士の負傷のために取り直しの相撲が取れずに不戦敗となったのは、1948年10月場所6日目の横綱前田山-小結力道山戦の前田山以来57年ぶりだった。全治2週間の診断が出た五城楼は、すでに8日目に組まれていた春ノ山戦も不戦敗。2日続けての不戦敗は1989年(平成元年)9月場所の前頭3枚目富士乃真、12日目小結太寿山、13日目前頭3枚目三杉里)以来の珍事となった。五城楼は9日目休場の後、10日目より再出場したが3連敗で13日目より再び休場、13日目は取組が決まるまでに休場届を提出したため、1場所に3度目の不戦敗とはならなかった。
  • 2008年9月21日に序二段笹山-桑原戦に控えの星ヶ嶺が物言いを付けた[1]
  • 2009年7月場所4日目、前頭12枚目嘉風-同10枚目翔天狼戦で高砂審判長(元大関朝潮)が物言いの説明で、最初「ん、どっち?」「すみません」、そして翔天狼に上がっていた行司軍配を「嘉風」と言いかけ、さらには十両の「若天狼」と言い間違え、館内は大爆笑とブーイングが起こり騒然となったが、勝負はうっちゃりで嘉風の勝利。
  • 2011年7月場所7日目、幕下の若龍勢-宇映(現若圭翔)戦で同体物言いとなったが、宇映が若龍勢に土俵際でうっちゃられ倒れたときに土俵に後頭部を強打、脳震盪を起こし立ち上がれなかったため、協議の上取り直しとなるところ宇映の不戦敗となった。このときの湊川(元小結・大徹)審判長代理は「西方力士(宇映)が怪我をしたため痛み負けとします」という場内説明だった。
  • 2012年5月場所11日目、十両の政風-幕下の荒鷲戦。同体となり行司4代木村朝之助が荒鷲を有利とみて軍配を挙げたが物言いがついた。協議後、鏡山審判部長(元関脇多賀竜)が場内説明で「行司軍配は政風を有利とみて挙がりましたが……」と説明を間違えてしまった。協議の結果取り直しとなり、掬い投げで政風が勝ったが結局説明の訂正は無かった。
  • 2013年1月場所4日目、三段目の佐田錦木瀬乃若戦で、佐田錦が向こう正面に木瀬乃若を寄り切ったとみて行司の木村一輝が佐田錦に軍配を挙げたが、赤房下の湊川審判(元小結大徹)が物言いをつけ「足はまだ出ていない」と、行司に誤りを指示して取り直しとなった。前述の2012年11月場所9日目の関脇豪栄道-横綱日馬富士戦での“やり直し”の名誉挽回となった。
  • 2013年3月場所11日目、前頭11枚目豪風-同5枚目魁聖戦で、豪風が向正面土俵際で魁聖をはたき込んで軍配が上がり勝ち名乗りも受けたが、両者が花道を引き揚げる途中で「豪風が魁聖の髷を掴んだのではないか」(故意に髷を掴む行為は反則)と物言いがつき、協議の結果結局掴んでないと判断され軍配通り豪風の勝ちとなった。通常、勝ち名乗りの時点で取組の勝敗は決することになっているが、土俵下の勝負審判がビデオ室とやりとりをする際に時間がかかったことが原因で行司が軍配を差してすぐに物言いをつけることができなかった。ちなみに同様の前例としては、2011年9月場所7日目、序二段の栃天翔奈良三杉戦で、栃天翔の寄り倒しに勝負ありとみられたが、行司が栃天翔の勇み足ありと奈良三杉に軍配を挙げた。勝ち名乗りを受け、場内アナウンスでも勝ちが発表された後に、栃天翔に軍配が挙がったものと思い込んでいた審判が急遽物言いをつけた。両者も呼び戻され、結局行司差し違えで栃天翔の勝ちとなった。[2]
  • 2014年5月場所4日目、前頭10枚目栃乃若-同7枚目豊真将戦で栃乃若が豊真将を向こう正面に寄り切った。行司15代木村庄太郎が栃乃若に軍配を挙げたところで物言いがついた。栃乃若に勇み足があったのでは、ということで物言いがついたが、協議の結果は行司の軍配通りだった。しかし場内説明の際、井筒審判部副部長(元関脇・逆鉾)は「軍配通り栃乃若の勝ち」と言うべきところを「豊真将の勝ち」と言い間違い、慌てて訂正した。この場所より幕内の審判長を務めることもあり、緊張から説明ミスとなってしまった。
  • 2014年5月場所12日目、結びの関脇豪栄道-横綱鶴竜戦で豪栄道が鶴竜を東土俵に破り、立行司37代木村庄之助も豪栄道に軍配を挙げたが、東の控えで勝ち残りの横綱白鵬がすかさず右手を挙げて物言いをつけた。その後協議の結果、豪栄道が鶴竜の髷を引っ張ったとして、豪栄道の反則負け(横綱の「反則勝ち」は史上初)となった。幕内の取組で控え力士が物言いをつけたのは、1996年1月場所9日目の小結土佐ノ海-前頭筆頭貴闘力戦(貴ノ浪が物言いの手を挙げた)以来、実に18年振りの出来事だった[3]
  • 2014年5月場所14日目、横綱日馬富士-大関稀勢の里戦。土俵際日馬富士が稀勢の里を叩き込んだかに見えたが、立行司37代木村庄之助の軍配は稀勢の里。物言いの末、日馬富士が稀勢の里の髷をつかんでいたとして行司軍配通りとなった。本来行司は反則勝ちの判断を下すことはできず、禁じ手の有無は審判員に委ねなければならないが、庄之助は「日馬富士の足が出たと見て軍配をあげた」と語った[4]

関連項目

脚注

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  1. え!?控え力士が物言い…序二段取組で珍事(相撲) ― スポニチ Sponichi Annex スポーツ 大相撲 2008年 秋場所
  2. テンプレート:Cite web
  3. 鶴竜、珍事に苦笑い=大相撲夏場所12日目 時事通信 2014年5月22日閲覧
  4. 読売新聞2014年5月25日付、31面