立行司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

立行司(たてぎょうじ)は、大相撲行司における最高位の階級。かつては力士の横綱と同様に吉田司家の立行司免許を必要としたため行司の横綱に相当する。

解説

立行司は木村庄之助式守伊之助の二人からなる。1960年停年制実施以前は、行司年寄になることが出来た(その名残は木瀬(木村瀬平)・式秀(式守秀五郎)の年寄名跡に見られる)。立行司は親方とも呼ばれる。

立行司は、土俵祭の祭主を務めるほか、年寄横綱大関同様評議員となり、役員選挙の選挙権(被選挙権はない)をもち、評議員会に出席することができる。かつては行司は全員が帯刀していたが廃刀令により帯刀しなくなった。後に差違いをすれば切腹する覚悟という意味で立行司のみ帯刀が復活した。実際には切腹することはないものの、差違いを犯してしまった場合には進退伺を出すのが慣例となっていたが、26代庄之助の時からは口頭で詫びを入れるだけになった。

なお、戦前東京の相撲協会と大坂相撲が合併した当初、立行司名は木村庄之助式守伊之助に加え、大坂相撲の立行司名であった木村玉之助の3名(もう1人の大坂立行司木村清之助は除外された)であった。これは1951年副立行司制導入まで続き、副立行司制導入時には、木村玉之助は副立行司名とされた。当時、木村庄之助・式守伊之助は1日1番の取組を裁き、副立行司は2番の取組を裁いていた。

この副立行司制は1960年1月の行司停年制施行に伴い廃止され、以後木村玉之助の名跡は50年以上襲名されないまま現在に至っている。木村庄之助は総紫の房を使用し、式守伊之助(及び副立行司(木村玉之助))は白紫の房を使用する。これは現在も変わりはない。

江戸時代から番付上、伊之助と庄之助の片方が空位になったり、立行司が休場などにより土俵に上がれず三役格行司が結びを捌くことは時折発生していたが両方同時に空位という場所は長らく発生しなかった。しかし1993年7月場所後に27代伊之助が停年退職、11月場所後には28代庄之助も停年退職し1994年1月と3月の2場所は番付に伊之助も庄之助もいないという前代未聞の立行司空位場所となり当時の三役格行司3名が交代で結びを裁いていた。なお、これ以降現在に至るまで番付に立行司が存在しない場所はない。

なお2011年1月場所以降、場内アナウンスでの行司紹介のうち立行司については代数も合わせて紹介されるようになった。

関連項目

テンプレート:相撲