海老原博幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox

海老原 博幸(えびはら ひろゆき、男性、1940年3月26日 - 1991年4月20日)は、日本の元プロボクサー東京都福生市出身。本名松田博幸協栄ボクシングジム所属。 元世界フライ級王者。東京都立第五商業高等学校中退

左利きのボクサースタイルの強打者。同じ階級のファイティング原田青木勝利とともに「フライ級三羽烏」と呼ばれた。

ボクシングとの出会い

10代の海老原は目黒のトンカツ屋で出前のアルバイトを募集していた為に面接に行くと、いかつい顔の店主がじっと彼の体、特に足を見て「縄跳びしてみろ」と言った。何の意味があるのか判らなかったものの、とにかくバイトで金を稼ぎたかった海老原は店主の言うままにジャンプやダッシュを繰り返した。この親父は面接の後すぐに店を畳んでいる。この店主、実は豪傑で名高いライオン野口(岩田愛之助系の国士でもある)の高弟で、野口ジムの四天王と呼ばれたファイター型のボクサーだったが、ボクサーを辞めてマネージャーとなるとヤクザにタカラれる毎日でホトホト嫌気がさしたので『堅気になろう』とジムの後輩山神淳一を大番頭に心機一転「とんかつ屋」を開いたばかりであった。そして、この店主が後に8人の世界チャンピオンを誕生させた金平正紀である。これは金平と親交のあった安部譲二の証言であるがこの説はあまりにドラマチックであり、実際は面接にきた少年と金平が世間話を始めたのが始まりという説もある。ともかく運命の出会いを果たした二人は、菓子折りを手に方々のジムを借り練習を始め、馬小屋を改造したささやかなジムを拠点とした。これが協栄ボクシングジムの歴史の始まりである。

カミソリ・パンチ

度重なる拳の骨折により世界王者として突出した記録は残せなかったが、同時期のライバルで後に親友となるファイティング原田(東日本新人王決勝で両者は対決し、原田の判定勝ち)は「海老原は天才だった」と述べており、名王者リカルド・ロペス大橋秀行との対談で海老原の実力を高く評価している。当時数多くの強豪が犇いていたフライ級戦線で、原田にこそ敗れたが三羽烏のライバル青木勝利、東洋王座を10度防衛した中村剛(通算4戦して3勝1分)、後の世界王者チャチャイ・チオノイ、そして現役世界王者ポーン・キングピッチを相手に国内歴代3位となる29連勝を達成、連勝ストップ後も海外で後の世界王者アラクラン・トーレスに2勝(1KO)する等、フライ級では屈指の実力者であった。ポーンを破り、世界王座を獲得したサルバトーレ・ブルニテンプレート:Flagicon イタリア)の陣営が頑なに海老原との対戦を拒んだというエピソードもある。天性のリズムと絶妙のタイミングから放たれる左ストレートは、カミソリ・パンチと称され、その強打を駆使し国内歴代2位となる33KOを記録。師匠で数多くの世界王者を育てた金平も「最もパンチ(力)があったのは海老原だ」と語るほどである。また精神力も高く、試合中に拳を骨折しながら試合終了まで耐える事もしばしばで海老原を含む多くの世界王者を育てた名トレーナーエディ・タウンゼントも後に「一番ガッツがあったのは海老原だった。海老原は本当の男だ」と語っている。

上記の通り、その強打からボクサーとしては致命傷と言える7度の拳の骨折を経験した。2度目のタイトルを獲得したホセ・セベリノ戦では試合前に骨折した右拳に打ち込んだ麻酔が試合中に切れてしまった上、途中左拳も痛めたが、激痛をこらえてフルラウンド戦っている。また最後の試合であるバーナベ・ビラカンポ戦でも試合中に右拳の骨折と左肩の脱臼を生じた。

引退後は協栄ジムのトレーナーやテレビ東京の解説者を務めたが、過度の飲酒により肝機能障害を患い、1991年4月20日に51歳の若さで死去。原田は「俺は親の葬式でも泣かなかったが、海老原が死んだ時は泣きまくった」と大ショックを受けた。

主な戦績

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:Championshiptitle テンプレート:Championshiptitle テンプレート:Championshiptitle先空

テンプレート:日本のボクシング世界王者

テンプレート:年間最優秀選手賞 (日本プロボクシング)
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 ボクシング・マガジン編集部 『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』 ベースボール・マガジン社、2002年