波多野秀治

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波多野 秀治(はたの ひではる)は、 戦国時代から安土桃山時代にかけての丹波国大名波多野氏最後の当主。

生涯

波多野晴通の子として生まれる。

波多野氏は、祖父・波多野稙通の死後から三好長慶に服属し、はじめ秀治も三好氏に仕え、正親町天皇の即位式のときにも列席した。しかし、長慶死後の永禄8年(1566年)、秀治は波多野家の居城である八上城を奪還し、戦国大名として独立した。また、播磨国別所長治を娘婿として同盟を結んでいる。

永禄10年(1568年)、織田信長足利義昭を奉じて上洛してくると、織田氏に従った。天正2年(1575年)には信長が派遣してきた明智光秀の軍勢に加わって丹波国で織田氏に反抗する豪族の討伐を担当した。だが、裏側では綿密に丹波国の豪族達への協力意思を通達しており、天正3年(1576年)1月に突如として叛旗を翻し、光秀の軍勢を攻撃して撃退した(黒井城の戦い)。

これに激怒した信長は、光秀に大軍を与え再度の丹波侵攻を命じた。これに対し秀治は八上城に籠城し、国人衆らと共に頑強な抵抗を展開する。秀治には丹波の入り組んだ山岳地帯に深い理解と知識があり、これを巧妙に生かした用兵で敵軍を翻弄し、織田軍の猛攻を1年半にも亘って耐え抜いた。しかし長期の籠城戦で兵糧が尽き、味方の丹後・但馬諸豪族も次第に撃破され、また光秀の調略で織田氏に寝返った豪族も出て窮地を極め、天正7年(1579年)に遂に光秀に降伏した。

その後、弟の秀尚と共に安土城に送られ、信長の命令で同年6月2日に安土の浄巌院慈恩寺でに処された。辞世の句は、「よわりける 心の闇に 迷はねば いで物見せん 後の世にこそ」。

篠山市に伝わる伝承によると、秀治の次男甚蔵は乳母に抱きかかえられ味間へ落ち延びた。のち、波多野定吉と名乗り、篠山藩に仕えたという[1]

家臣

国人衆
家臣

脚注

  1. 篠山の民話集 ■ 八上城の危機を救おうとした四十九院の修業僧 - 篠山市 田中貞典

関連項目