沼田顕泰

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沼田 顕泰(ぬまた あきやす、生没年不詳)は、戦国時代武将上野国利根郡沼田の領主であった沼田氏の当主。 

概要

沼田泰輝の実子。正室長野業正の娘テンプレート:要出典または長尾景春の娘。万鬼斎、勘解由左衛門尉。

左衛門尉三郎(憲泰)・弥七郎朝憲(則安、正室との子)・平八郎景義(側室との子)らの父(『沼田町史』)。(他に沼田祐光の父とも)。娘には安中越前守重繁室と、長野業正室があったとみられている(『戦国大名と外様国衆』黒田基樹、1997年)。また、長尾景春の娘は子・憲泰室とも伝わるが、景春の室は顕泰の妹であり、世代から合わないとされる(『戦国大名と外様国衆』)。

永禄初年には沼田氏で内紛があったとみられており、これは家中が上杉憲政派と後北条氏派に分裂したのが原因という。顕泰は上杉憲政に通じて反北条方であり、長子・左衛門尉三郎と沼田当主の弥七郎が後北条氏に近づいたため、顕泰は子を次々誅した。しかし北条氏に通じた弥七郎室の実家・厩橋長野氏に攻撃されて顕泰は越後に逃亡、沼田城には北条康元が入り沼田氏を称したとされる(『沼田市史』)。

上杉謙信が上野へ侵攻して沼田康元を追うと沼田に復権したとされ、永禄4年(1561年)の「関東幕注文」で上杉方の沼田衆を率いる沼田惣領は顕泰とみられる(『戦国大名と外様国衆』)。だが沼田城は上杉氏の関東支配の要衝となったため、永禄5年ごろから上杉氏による城代支配が行われた。以後顕泰の名はみえず、消息不明となっている。なお、1529年から1532年にかけて沼田城を築城し、それまで幕岩城に代わってここを本拠としたという(『日本城郭大系』)。

「加沢記」によると、老齢のため、家督を子の朝憲に譲り天神城に隠居したが、永禄12年(1569年)、側室との庶子である景義に家督を譲ろうとして側室の兄(又は父)といわれる金子泰清と共に朝憲を殺害したため、家臣の反発を買い、北条高広(朝憲の岳父)や長尾憲景白井長尾氏)、真田氏も顕泰に敵対したため領地を追われ、景義と共に同族の蘆名氏を頼って会津に逃亡したという。その後の消息は不明だが、まもなく没したといわれる。しかし「加沢記」は江戸時代の成立で脚色も多いとされる。少なくとも当時の状況や他の資料の記述から永禄12年説は間違いとされ、真田氏の関与も薄いと見られている(『戦国大名と外様国衆』)。

斎藤憲広と共に土地の横領などを何度も繰り返した事でも悪名高いとされているテンプレート:要出典

関連項目

文学作品

  • 池波正太郎『まぼろしの城』(講談社文庫、1983)
  • 池波正太郎「幻影の城」(『あばれ狼』(新潮社、1989)に収録)