江藤隆美
テンプレート:政治家 江藤 隆美(えとう たかみ、男性、1925年4月10日 - 2007年11月22日)は、日本の政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。自由民主党の衆議院議員として建設大臣、運輸大臣、総務庁長官を歴任。
来歴・人物
宮崎県日向市生まれ。旧制富高実業学校(現・宮崎県立門川高等学校)を経て、旧制宮崎農林専門学校(現・宮崎大学)を卒業。卒業後、宮崎県議会議員選挙に立候補し、3期当選した。
1969年の第32回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・林義郎・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・中山正暉・浜田幸一など)。この選挙で初当選した衆議院議員は「四十四年組」と呼称された。1973年には中川一郎が主催する青嵐会の結成に、石原慎太郎らと共に参加した。1983年、自民党国会対策委員長に就任した。
橋本龍太郎自民党幹事長代理の幹事長昇格に伴い土井たか子が委員長を務める社会党マドンナ旋風にさらされた1989年の参議院選挙当時の自民党幹事長代理を務めるが、宇野宗佑首相の女性問題、消費税、リクルート事件、と逆風が吹き荒れる中、この参議院選挙で自民党は歴史的な大敗を喫す。
続く第1次海部内閣で運輸大臣に就任。成田空港2期工事推進のため建設予定地を視察した際、地元の農家の老人に土下座される。この時江藤は自らも膝を地面につき、老人の手を取りながら話し掛けた。また雨天の中反対派農家を回り卓を囲んで住民の話に耳を傾けるなど、武闘派らしからぬ一面を見せた。このとき、江藤が「わしは命をかけてきちょるんじゃ」とタンカをきった。彼のセリフをうけ、地元農家が「ようし、わかった、あんたがそこまで言うなら、ここで死んでくれ」と包丁をさしだすと「いや、それは、その…」とうけた。この場面は同行のマスコミに映された。
1990年の第39回衆議院議員総選挙に前年のマドンナ旋風の煽りを受けて現職運輸大臣として落選したが、1993年の第40回衆議院議員総選挙で当選し中央政界に復帰した。
1995年8月、村山改造内閣で総務庁長官に就任するが、同年11月、朝鮮半島に対する日本の植民地支配に関し「日韓併合は強制的なものだったとした村山首相(当時)の発言は誤りだ。植民地時代に日本は悪いこともしたが、良いこともした」というオフレコ発言を巡り、批判され長官を辞任した。
植民地発言と同じ頃、沖縄県知事の大田昌秀によるアメリカ軍用地強制使用手続きの代理署名拒否問題が起こった際、防衛施設庁長官の宝珠山昇が、オフレコで首相の村山富市を「頭が悪い」と批判して辞任するなど、メディアがオフレコを報じるべきか報じないべきかをめぐり、その場にいた記者が江藤の「ここから先はオフレコで」という発言を認めていながらオフレコの内容を報道したこととあわせて当時論争になった。
なお、江藤は2013年8月現在、中国・韓国に歴史認識をめぐる発言を追及されて辞任した最後の閣僚である。
1998年11月3日、勲一等旭日大綬章受章。2003年の総選挙には出馬せず、引退。通算で当選10回。
2007年11月22日、訪問先のベトナム、ホーチミン市内のホテルで、就寝中の心臓発作で死去。テンプレート:没年齢。
政策
タカ派として知られ、若手の頃から武闘派で鳴らした。中曽根派では渡辺美智雄、宇野宗佑、藤波孝生、山崎拓らと共に幹部として発言力を持っていた。
派閥は中曽根派→渡辺派を経て、村上・亀井派に所属。村上正邦が自民党参議院議員会長に転出し派閥会長を退いたため、1999年7月に第2代会長に就任、同派は江藤・亀井派となる。引退後も志帥会(伊吹派)名誉会長として派閥会合に毎回出席していた。
人物・発言
- 2003年7月12日に福井市内で行った講演にて、日本の過去の戦争が全て正しかったわけではないとしつつ、「侵略戦争だったと頭を下げて、自分の国が悪いように言ってきた」として、日本の歴代首相が謝罪を行ってきたことを批判した[1]。テンプレート:要出典範囲。1937年の南京事件については、死者30万人は虚偽であると主張した[1]。中韓両国は、江藤のこれらの発言に反発した[2][3]。
- 身長は自身の著書によると173cmあり、同年代の男性の中では長身の方であった。
- 眉毛が非常に特徴的である(後ろから見ても眉毛が見えると揶揄されていた)。
略歴
- 1925年4月10日 - 誕生。
- 1942年 - 旧制富高実業学校卒業。
- 1947年 - 宮崎農林専門学校獣医畜産学科卒業。
- 1959年 -宮崎県議会議員(3期)。
- 1969年 - 第32回衆議院議員総選挙初当選(通算当選10回)。
- 1973年 - 青嵐会参加。
- 1974年 - 農林政務次官。
- 1976年 - 国土政務次官。
- 1983年 - 自民党国会対策委員長。
- 1985年12月 - 建設大臣。
- 1989年6月 - 自民党幹事長代理。
- 1989年8月 - 運輸大臣。
- 1990年 - 第39回衆議院議員総選挙に現職大臣ながら落選。
- 1993年 - 第40回衆議院議員総選挙返り咲き当選。
- 1995年8月 - 総務庁長官。
- 1998年11月3日 - 勲一等旭日大綬章受章。
- 2003年 - 政界引退。後継者は息子の江藤拓。
- 2004年 - 門川町名誉町民の称号を受ける。
- 2007年11月22日 - 死去。
著書
- 『「真の悪役」が日本を救う ポピュリズムは最後に民衆を苦しめる』(2003年5月、講談社 ISBN 4062118831)
脚注
関連項目
テンプレート:S-par
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
木野晴夫
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院内閣委員長
1980年 - 1981年
|style="width:30%"|次代:
石井一
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
森下元晴
小此木彦三郎
|style="width:40%; text-align:center"|自由民主党国会対策委員長
第30代 : 1984年 - 1985年
第28代:1983年 - 1984年
|style="width:30%"|次代:
藤波孝生
森下元晴
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
村上正邦
|style="width:40%; text-align:center"|志帥会会長
第2代 : 1999年 - 2003年
|style="width:30%"|次代:
亀井静香
テンプレート:S-off
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
山口鶴男
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 総務庁長官
第16代:1995年
|style="width:30%"|次代:
中山正暉
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
山村新治郎
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 運輸大臣
第62代:1989年 - 1990年
|style="width:30%"|次代:
大野明
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
木部佳昭
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 建設大臣
第49代:1985年 - 1986年
|style="width:30%"|次代:
天野光晴
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