毛利宗広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 武士 毛利 宗広(もうり むねひろ)は、長州藩第6代藩主。第5代藩主毛利吉元の五男。正室は越前松平宗昌の娘・勝姫(隔芳院・融芳院)。は初め維広(これひろ)、後に徳川吉宗偏諱を拝領して宗広に改名。

経歴

享保2年(1717年)7月6日生まれる。長兄で嫡子だった毛利宗元が享保6年(1721年)に早世したため世嗣となる。享保16年(1731年)、吉元の死去により家督を相続し15歳にして藩主に就く。その施政は、岡山藩倉安川を参考に城下に藍場川を造成し、水運の便を図ったり、神社仏閣の建設にも力を入れた。治世中、の出来事として、寛保二年江戸洪水#西国大名の手伝い普請がある。

しかし、寛延4年(1751年)2月4日、35歳の若さで死去した。世嗣となる男児がいなかったため、藩は、支藩である長府藩から毛利重就末期養子として迎える。

偏諱を与えた人物


※死後
  • 毛利重(重就の養子。宗広の遺言により娘婿となり、重就の嫡子となるも早世。)


テンプレート:長州藩主