橘嘉智子

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橘 嘉智子(たちばな の かちこ、延暦5年(786年) - 嘉祥3年5月4日850年6月17日))は、第52代嵯峨天皇皇后橘奈良麻呂の孫、贈太政大臣橘清友の娘。母は田口家主の娘で、正一位・田口三千媛。兄弟に右大臣橘氏公がいる。諡号檀林皇后(だんりんこうごう)。

経歴

世に類なき麗人であったといわれる。もとは嵯峨天皇の数多い夫人の一人に過ぎなかったが、桓武天皇皇女の高津内親王が妃を廃された後、姻戚である藤原冬嗣(嘉智子の姉安子は冬嗣夫人美都子の弟三守の妻だった)らの後押しで立后した。橘氏出身としては最初で最後の皇后である。

嵯峨天皇との間に仁明天皇(正良親王)・正子内親王淳和天皇皇后)他二男五女をもうけた。仏教への信仰が篤く、嵯峨野に日本最初の禅院檀林寺[1]を創建したことから檀林皇后と呼ばれるようになる。嵯峨天皇譲位後は共に冷然院・嵯峨院に住んだ。嵯峨上皇の崩後も太皇太后として隠然たる勢力を有し、橘氏の子弟のために大学別曹学館院を設立するなど勢威を誇り、仁明天皇の地位を安定させるために承和の変にも深く関わったといわれる。そのため、廃太子恒貞親王の実母である娘の正子内親王は嘉智子を深く恨んだと言われている。

逸話

仏教に深く帰依しており、餌として与えて鳥や獣の飢を救うため、または、この世のあらゆるものは移り変わり永遠なるものは一つも無いという「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して、人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こすために、死に臨んで、自らの遺体を埋葬せず路傍に放置せよと遺言し、遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したといわれる[2]。または、その遺体の変化の過程を絵師に描かせたという伝説がある[3]

橘嘉智子を題材とした小説

脚注

  1. 「平安時代、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子によって、現在の京都天竜寺(京都市右京区嵯峨)の地に創建された寺で、現在は廃絶。」(田村晃祐による解説、『日本大百科全書(小学館)』)
  2. 帷子辻参照。
  3. 野に捨てられた死体が腐乱し、白骨となる様を主題とした絵画を「九相図」(九相詩絵巻)」「人道(九)不浄相之図」と呼ぶ。「檀林皇后九相図会」、「小野小町九相図」など。

関連項目

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