樺山久高

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樺山 久高(かばやま ひさたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将島津氏の家臣。樺山忠助の次男。樺山善久の孫。

樺山氏は島津氏の一族で、久高はその13代目の当主である。当初島津氏重臣大野忠宗の婿養子となったが忠宗失脚後に離婚し、実家の樺山氏に戻る。その後、兄や甥の早世により樺山氏を継いだ。島津忠恒(家久)の代には家老に任命されて重用された。朝鮮出兵にも参加し、李氏朝鮮の武将・李舜臣の水軍を破るなどの武功を立てた。1609年琉球侵攻においても、首里城を落とすなどの武功を立てて、島津氏の琉球支配に貢献した。

しかしその後、領地の加増を訴えるも家久には無視され、跡取りの息子にも先立たれて失意の晩年を送った。墓所は鹿児島県日置市多宝寺

武芸だけでなく、和歌蹴鞠にも造詣の深い教養人であったと言われている。