横浜事件

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横浜事件(よこはまじけん)は、第二次世界大戦中の1942年から1945年にかけて生じた、雑誌に掲載された論文がきっかけとなり、編集者、新聞記者ら約60人が逮捕され、約30人が有罪となり、4人が獄死した事件である。

戦後、無実を訴える元被告人やその家族・支援者らが再審請求をし続けた。2005年に再審が開始され、罪の有無を判断せず裁判を打ち切る免訴判決が下された。

経緯

1942年、総合雑誌『改造』(8-9月号)に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が、「共産主義的でソ連を賛美し、政府のアジア政策を批判するもの」などとして問題となり、『改造』は発売頒布禁止処分にされた。そして9月14日に細川が新聞紙法違反の容疑で逮捕された。

捜査中に、同著者と『改造』や『中央公論』の編集者などが同席した集合写真が同著者の郷里・富山県泊町(現・下新川郡朝日町沼保)の料亭旅館「紋左(もんざ)」で見つかり、日本共産党再結成の謀議をおこなっていたとされた(「泊事件」)。実際は細川が1942年7月5日、出版記念で宴会を催した際の写真であったとされている[1]。1943年に改造社中央公論社をはじめ、朝日新聞社岩波書店満鉄調査部などに所属する関係者約60人が次々に治安維持法違反容疑で逮捕され、神奈川県警特別高等警察(特高)は被疑者を革や竹刀で殴打して失神すると気付けにバケツの水をかけるなど激しい拷問をおこない、4人が獄死(神奈川県警察の管轄事件であったために横浜事件と呼ばれるようになった)。『改造』『中央公論』も廃刊となった。

判決が下ったのは玉音放送がされた直後、即ち法が廃止される1ヶ月前の1945年8月下旬から9月にかけての駆け込み言い渡しで、約30人が執行猶予付きの有罪とされた。GHQによる戦争犯罪訴追を恐れた政府関係者によって当時の公判記録は全て焼却され、残っていない[1](遺族が再審請求に提出した証拠の「確定判決書」はアメリカ国立公文書記録管理局に保存されていた物の謄本である)。当時手を下した元特高警察官30人が告訴され、うち3人が有罪となったが、日本国との平和条約発効時の大赦により全員免訴となった。また裁判官検察官に対しては何らの処分もされていない。

真相については現在でも不明な部分が多く、言論弾圧的な側面だけではなく反東條英機の有力な重臣であった近衛文麿の失脚を期したものではないかと推測される場合もある。というのは、近衛の側近・後藤隆之助の主宰した「昭和塾」で細川嘉六が講師をしていた関係で、塾からも逮捕者がでているからである。

弁護側の主張

有罪判決を受けた関係者・遺族は次のように主張して、まったくのでっち上げ(フレームアップ)だと主張しており、名誉回復を求めていた。

  • 当時非合法の秘密結社でなければならなかった共産党を再結成しようとする人間が、会合の写真などを撮る理由はない。
  • 同著者の論文も軍情報局の検閲を通過していたため弾圧の理由はなかったはずだ。

無実を訴え続けた元被告人やその家族、支援者らは再審請求を繰り返していた。1986年に第1次、1994年に第2次再審請求の審査が行われたがいずれも棄却された。しかし、元中央公論編集者の妻ら元被告人5人の遺族が1998年に申し立てた第3次再審請求で横浜地裁は2003年に再審開始を決定した(横浜地決平15・4・15、判時1820・45)。

検察官即時抗告申立てに対し東京高裁は抗告審(2005年3月10日)で、警察官の拷問を認定した確定判決から、

  • 被告人らに対しても相当回数にわたり拷問を受け、虚偽の自白をしたと認められる
  • 自白の信用性に顕著な疑いがある
  • 横浜事件の有罪判決は、自白のみが証拠であるのが特徴
  • 自白の信用性に疑いがあれば、有罪の事実認定が揺らぐ

と認定した。「再審は事実認定の誤りの是正が基本。法解釈の誤りを理由にするのは、再審の本質と相いれない」ことを理由として検察側抗告を退け、横浜地裁の再審開始決定を支持した。東京高検最高検と協議した結果、特別抗告を断念。再審開始が確定した。

他界した元被告人らの遺志を受け継いで再審を請求した遺族らは、「無罪の一言を聞くのはもちろん、なぜ横浜事件がつくられたのかを解明することが大事だ」と語った。これは再審が無罪を認めるだけではなく、治安維持法がどのような法律であったか、どれだけ多くの人がその害をこうむったのかを解明して、司法の犯罪と日本の戦争責任を明らかにすべき裁判であることを強調したものである。

  • 一審の横浜地裁は、2006年2月9日、「ポツダム宣言廃止とともに治安維持法は失効し、被告人が恩赦を受けたことで、刑訴法337条2号により免訴を言い渡すのが相当」と判決する。
  • 控訴審の東京高裁では、事実審理を行う前提となる論点であるところの、免訴判決に対して無罪判決を求めて控訴しうるかについて争われ、2007年1月19日、「被告人は刑事裁判手続きから解放され、処罰されないのだから、被告人の上訴申し立てはその利益を欠き、不適法」として、控訴棄却した。弁護団は即日、最高裁上告した。
  • 最高裁判所第二小法廷は、2008年3月14日、「再審でも、刑の廃止や大赦があれば免訴になる」として遺族らの上告を棄却した。

2008年10月に開始が決定された第4次再審第一審の横浜地裁は、2009年3月30日、第3次最高裁判例を踏襲し、免訴を言い渡した。ただし、事件の被告が無罪である可能性を示唆した上で、「免訴では、遺族らの意図が十分に達成できないことは明らか。無罪でなければ名誉回復は図れないという遺族らの心情は十分に理解できる」と述べ、刑事補償手続での名誉回復に言及した。これを受けて原告側は控訴せず、今後刑事補償手続に移ることを明らかにした[2]

本件に適用される旧刑事訴訟法での控訴期限である4月6日までに元被告・検察の双方が控訴しなかったため、免訴が確定した。2009年4月30日に第4次再審請求の元被告遺族が、刑事補償の請求手続きを横浜地裁に行った。遺族は、地裁が補償決定に際して事件が冤罪と判断することを期待すると記者会見で述べている。

2010年2月4日、横浜地裁は元被告5人に対し、請求通り約4700万円を交付する決定を行った。審理を担当した横浜地裁の大島隆明裁判長は決定の中で、特高警察による拷問を認定し、共産党再建準備とされた会合は「証拠が存在せず、事実と認定できない」とした。その上で確定有罪判決が「特高警察による思い込みや暴力的捜査から始まり、司法関係者による事件の追認によって完結した」と認定し、「警察、検察、裁判所の故意、過失は重大」と結論づけた。再審で実体判断が行われた場合には無罪判決を受けたことは明らかであるとして、実質的に被告を無罪と認定し、事実上事件が冤罪であったことを認めた[3]

本件について、その判決要旨が2010年6月24日付の官報並びに読売新聞朝日新聞しんぶん赤旗の3紙に横浜地裁の名前によって公告された。

文献

脚注

  1. 横浜事件第4次再審裁判、免訴判決に抗議する 日本国民救援会会長声明 2009年4月1日
  2. 読売新聞2009年3月30日付
  3. 共同通信 2010年2月4日

関連項目

外部リンク