柳原紀光

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柳原 紀光(やなぎはら のりみつ/もとみつ、延享3年11月14日1746年12月25日) - 寛政12年1月3日1800年1月27日))は、江戸時代公卿正二位権大納言)・歴史家。父は柳原光綱で、母は丹波柏原藩藩主織田信休の娘。幼名は綱丸、初名は光房(~明和4年(1767年))、字は藤蔓、出家後の法名は暁寂。妻は勧修寺顕道の娘・道子。子には長男柳原均光・次男資前[1]他、娘が数人いる。柳原前光愛子大正天皇生母)兄妹は玄孫柳原義光柳原白蓮義兄妹は来孫にあたる。歴史書続史愚抄』の著者。

経歴

寛延元年(1748年叙爵して宝暦6年に侍従となる。以後蔵人頭参議などを歴任して安永4年(1775年)に権大納言、天明元年(1781年)には正二位に昇進する。

ところが、天明8年(1789年)些細な事から突如光格天皇より勅勘解官処分を受けて宮廷から追放されてしまう。2年後に復帰を許されるものの、以後は出仕をせずに父が遺した歴史書編纂事業に専念する決意をする。

そもそも柳原家藤原北家日野流名家で学問の家として知られていたものの、一時家系が断絶した事もあってその学問は衰えていた。紀光の父・光綱は六国史以後、官による正史編纂が断絶しており、公家社会による編纂も『百錬抄』(亀山天皇時代)以後断絶している事を嘆き、自らの手で以後の歴史書編纂を志していたが、果たすことなく病死していた。紀光はその遺志を継いで歴史書編纂を志したのである。

寛政10年(1798年)、22年の歳月をかけて亀山天皇から先代の後桃園天皇の時代までを扱った歴史書『続史愚抄』81冊を完成させた(なお、同書は北朝正統論を取っており南朝の天皇を認めていない)。また、紀光のもう1つの業績として、貴重な歴史書を写本・校訂し後世に伝えたことも挙げられる。『皇代暦』や『武家年代記』の現在の底本は、紀光が原本から写本したものとされ、原本が失われてしまったとされる今日では貴重なものとされている[2]。また、六国史の『日本後紀』の現在の諸書も紀光が三条西家から書写・校訂したものが底本になっているという説がある(森田悌説)。紀光が『続史愚抄』編纂のために用いたと見られる史料は柳原家に伝えられて、今日でも東京大学史料編纂所に所蔵されている。

他には日記『紀光卿記』(『愚紳』)、随筆『閑窓自語』などが残されており、公家社会や自然科学などに関する紀光の広い関心が垣間見られる。

『続史愚抄』完成の前年に出家した紀光は寛政12年(1800年)に55歳で没した。

脚注

  1. 文化2年(1805年)8月資前は公家柳原家より丹後国二宮社家嶋谷家に養子
  2. 是沢恭三の研究によれば、柳原家の写本作成には紀光のみならず一族が総動員され、確認されるところでは、実姉とその夫の吉田兼隆、実弟覚遍(報恩院権僧正)、実妹光子(日野資矩室)、実子の均光・資前・多田子、養女の今子(嘉久子)、妾の富貴子、家僕の某若狭守親弘・土橋忠種が書写に参加していたことが知られている(是沢恭三「柳原紀光の諸家記録探求に就て」(「国史学」45号(1942年10月))。

関連項目

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