松平忠周

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松平 忠周(まつだいら ただちか)、または松平 忠徳(まつだいら ただのり)、は、江戸時代中期の大名。伊賀守流藤井松平家3代。はじめ丹波亀山藩の第3代藩主、のち武蔵岩槻藩主、但馬出石藩主、信濃上田藩の初代藩主。幕府では側用人京都所司代老中を歴任した。

生涯

万治4年(1661年)4月19日、丹波亀山藩主で藤井松平家伊賀守流の初代・松平忠晴の庶出の三男として生まれる。

異母兄の第2代藩主・忠昭とは歳が離れていた上に、その聡明さを父から愛されたためか、兄の嗣子と定められた。天和3年(1683年)に忠昭が死去した際、兄の遺児・石松(のちの多四郎忠隆)を推す一派が存在したものの、亡父・忠晴の遺命通りに家督を継いだ。

第5代将軍・綱吉に近侍し、側用人にまで出世するが、家宣が第6代将軍となると、側用人を免ぜられて幕政から遠ざけられる。その後、吉宗が8代将軍になると京都所司代を経て老中に起用された。

享保13年(1728年)5月1日、江戸で死去した。享年68。跡を三男の忠愛が継いだ。吉宗もその死を悼み、大久保佐渡守常春に銀300枚を持たせ、弔慰に遣わした。

経歴

※日付=旧暦

人物

人品、文武の両道共に優れ、和歌への造詣も深かった。

京都所司代の頃にはたびたび公卿から歌会に招かれていた。好感を得られる人柄からか、武家にしては柔和な人物と思われたのだろう。吉宗は忠周の頻繁な歌会参加を聞き及んでも、特に咎めることも無かった。その歌会仲間の伝で、『伊勢物語』の講にも参加。講が終わって、ある公卿が在原業平を羨む発言をした。その場の公卿は賛同する者がほとんどだったというが、忠周一人が座を正し、「諸卿の言、みな非なり。今もし、不義濫行その如きもの在らば、それがし、苟(いやしく)も東府の目代なり。職に於いて赦さず、速やかに召し捕えて罪を論じ、刑に処さん」と諫言した。この一事がやがて江戸にまで届き、吉宗の聞き及ぶ所となった。吉宗は「余が見る処は、違わざるなり」と満悦。老中抜擢の端緒であったという。

子女

長男、次男、四男は早世。三男・忠愛が嫡子となり家督を継いだ。五男・忠容は5000石を与えられ、大身旗本の分家を興した。六男・忠陣、七男・忠弘は藤井姓を称した。このほか、他家に嫁いだ娘が5人いる。


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