木村玉之助

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木村玉之助きむらたまのすけ)は、大相撲の元立行司1951年まで)、元副立行司(1951年から1960年)の名前である。

解説

もともと大坂相撲の立行司の名跡であった。1786年天明6年)8月に初代木村槌之助が玉之助(初代)と改名(槌之助は6代続き、6代槌之助が5代玉之助を襲名している)、ここに「木村玉之助」の名義が誕生した。初代玉之助は江戸相撲の本場所にも出場したこともある上方の名行司として知られ、京都一条家より異例の行司免許を受けている。10代が勤めていた1927年東京の相撲協会と合併すると木村玉之助は庄之助伊之助に次ぐ第3の立行司となる。その後10代は玉之助のまま引退するが11代12代は後に伊之助を経て庄之助を襲名した。

しかし13代が務めていた1951年5月場所に副立行司制が導入されると同時に副立行司に降格。同場所三役格行司の8代木村庄三郎(のち19代式守伊之助、副立行司はこの場所のみ)が、翌9月場所には同じく三役格行司の2代木村正直(のち23代木村庄之助)が副立行司に昇進している。

1960年1月場所で行司の停年(定年)制実施により副立行司も廃止され、前年(1959年)11月場所限りで13代が停年退職したのを最後に、半世紀を経た今日まで玉之助を襲名する行司はなく、名跡は事実上途絶えた状況となっている。

8代玉之助であった名人・木村越後(初代木村正直)は「玉之助という名は、代々終わりがよくない」として玉之助を返上し、「越後」に改名した。

13代は前名木村玉二郎を名乗ったが、歴代の木村玉治郎(玉次郎)とは別系になる。

木村玉之助は式守伊之助と同様に菊綴・房は紫白で短刀・印籠・足袋・草履を着用する。

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