朝海浩一郎

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朝海 浩一郎(あさかい こういちろう、1906年3月15日 - 1995年9月9日)は、日本の外交官。連絡調整中央事務局長官、外務審議官を経て、岸信介内閣における日米安全保障条約改定の時期を含め、駐アメリカ合衆国特命全権大使を異例の6年間務めた。1976年勲一等瑞宝章

来歴・人物

栃木県足利市生まれ[1]開成中学校卒、1929年東京商科大学一橋大学の前身)卒。学生時代はボート部所属。後にボート部OB会である四神会会長も務めた。

1928年外交官試験合格、1929年外務省入省。イギリスエディンバラ大学留学等を経て、南京副領事、戦時経済局課長、調査部課長、亜細亜局事務官、第二次大戦後には、1946年終戦連絡中央事務局総務部長、1948年外務省総務局長、連絡調整中央事務局長官、1956年外務審議官、再開初代駐フィリピン特命全権大使、1957年駐アメリカ合衆国特命全権大使、1963年外務省顧問、1964年第1回国際連合貿易開発会議代表、国際原子力機関第9回総会代表、1969年ジュネーヴ軍縮委員会日本政府代表等を歴任。

朝海の活躍は、第二次大戦直後に「最大の問題」として立ち現れた賠償問題に、終戦連絡中央事務局総務部長として関与したことから本格的に開始される。しかし、占領軍の外交顧問としてやってきたアチソンなど占領軍関係者との人脈等は、南京副領事時代やイギリスで作られた。テンプレート:仮リンク賠償使節団が1946年11月にトルーマン大統領の特別使節として来日した際には、日光に赴くポーレーに特別列車中で、単独接触し、連合国の賠償方針が現金賠償や戦争被害補償という枠組ではなく、軍事産業や過剰生産設備の資本移転による戦後復興の枠組に基づくことをいち早く突き止めた。

また、経済専門家の大来佐武郎をともなって、ポーレー大使の側近であるマクスウェルやオーウェン・ラティモアと、本土から撤去されるべき化成ソーダや鉱業用爆薬、製鉄産業設備の撤去をめぐる実務交渉を展開、アメリカ側の賠償計画に側面から影響を与えたと考えられる。終戦連絡調整事務局長官時代には、来日した国務長官ダレスとも接触、第二次大戦中の阿波丸事件や占領経費問題などを含めた賠償をめぐる問題のとりまとめを行った。しかし、阿波丸事件に由来する一切の請求権の承認や、南部仏印進駐時に凍結された日本の官民の在米資産、占領軍によって持ち去られた外貨準備としての金塊の返還は、連合国との講和条約において否定された。

朝海のその後は、様々な局面で占領期と変わらず米国の圧力に押されつづける日本の姿勢を晩年まで批判し続けたとされる。また、駐米大使時代、「日本にとって最大の外交的悪夢は何か」と質問され、「日本があずかり知らぬ間に、頭越しに米中両国が手を握る状態が訪れることだ」と答えたとされる。この発言が「朝海の悪夢」という名で外務省内部で話題を呼び、かつ朝海退任後のニクソン政権において現実となったことから、米中接近を予期した「朝海の悪夢」の発案者としても知られることとなった(朝海が実際に見た夢だった、とする説もある)。

妻洋子は外務次官や駐アメリカ大使を歴任した出淵勝次の娘。二男の朝海和夫も外交官で、欧州連合日本政府代表部部大使を務めた。

著書

  • 『外交の黎明――ジュネーヴ会議に使して』(読売新聞社、1950年)
  • 『初期対日占領政策――朝海浩一郎報告書(上・下)』(外務省編、毎日新聞社、1978-1979年)
テンプレート:在アメリカ日本大使
  1. 「外交官・朝海氏遺品を遺族が故郷・足利市に寄贈 栃木」MSN産経ニュース2014.7.26