有馬重則

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有馬 重則(ありま しげのり、生没年不詳)は、戦国時代武将摂津有馬氏有馬則景の子(有馬元家玄孫)。正室は細川澄元の娘。有馬則頼の父。別名は重頼(しげより)とも。官位は筑後守。法名は月公。

生家の摂津有馬氏播磨赤松氏の庶流で、摂津有馬郡を領したことから有馬氏を名のった。重則の一族は分家であり、父・則景(のりかげ)の代は三田城に在住していたが、重則の代に播磨三木に所領を移し、三田城から三津田城(満田城)に拠ったが、この地を領する別所就治とたびたび争ったという。天文23年(1554年)、重則は三好長慶の別所征伐に従い、別所方の淡河城を奪って居城としたが、就治の三木城を落とすことはできず、永禄元年(1558年)には淡河城を奪回されている。この時に死去したとも、後の永禄年間の三好氏の内紛により死去したともされる。テンプレート:Asboxテンプレート:Japanese-history-stub