有馬氏倫

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テンプレート:基礎情報 武士 有馬 氏倫(ありま うじのり)は、江戸時代中期の旗本大名江戸幕府8代将軍徳川吉宗に紀州時代から側近として仕え、伊勢西条藩の初代藩主となった。氏倫系有馬家初代。

系譜

「氏倫系有馬家」は摂津有馬氏の一族で、筑後久留米藩初代藩主有馬豊氏の三男頼次を祖とする。頼次の養子の吉政以来紀州藩に仕え、氏倫は吉政から数えて3代目にあたる。

寛政重修諸家譜』には庶出の2男1女(女子、弥平治、大助)が記されている。娘は紀州藩士淡輪重賢に嫁いだが、離婚となったのち大奥老女として仕えた。

生涯

寛文8年(1668年)、紀州藩有馬義景の子として紀伊国和歌山に生まれる。徳川吉宗が紀州藩主だった時代から側近として重用され、御用役兼番頭に任じられ、1300石を与えられて仕えた[1]

享保元年(1716年)5月1日、吉宗が江戸幕府8代将軍に就任すると、吉宗に従って江戸に移り、幕臣として仕えることとなる。同じく紀州時代からの側近である加納久通とともに、側用人を廃して新たに設けられた御側御用取次に命ぜられ、将軍と老中合議の仲介を行い、吉宗主導の享保の改革で功績を挙げた。

同年の御側御用取次就任時に、紀州藩時代と同じ石高のまま伊勢国三重郡内で1300石が与えられ、7月22日に従五位下兵庫頭に叙任される。享保2年(1717年)1月11日には下野国芳賀郡内で1000石が加増された。享保11年(1726年)1月11日、伊勢国多気郡河曲郡・三重郡内、下野国河内郡内、上総国市原郡内において7700石の加増を受け、都合1万石を領する大名となった。享保12年(1727年)閏1月28日に領知朱印状が発給されている(伊勢西条藩)。しかし自らは吉宗に近侍して領地に赴くことはなく、藩政は代官に任せていた。享保13年(1728年)4月には吉宗の日光参詣に供奉した。享保17年(1732年)2月、歩行による供奉を免除される処遇を受けた。

享保20年(1735年)12月12日に68歳で死去した。渋谷の祥雲寺に葬られ、以後有馬家の菩提寺となった。跡を養嗣子の氏久が継いだ。

脚注

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参考文献

関連作品


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  1. 小山誉城「大名に昇格した紀州藩士」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)