有栖川宮威仁親王

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有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、文久2年1月13日1862年2月11日) - 大正2年(1913年7月5日)は、日本皇族軍人。官職は軍事参議官称号階級元帥海軍大将勲等大勲位。功級は功三級

有栖川宮幟仁親王の第四王子(男女合わせた王子女の中では八人目、但し成人した男子は熾仁親王と威仁親王だけ)で、生母は家女房の森則子。熾仁親王は異母兄。 幼称は稠宮(さわのみや)。 妃は加賀金沢藩前田慶寧の娘・慰子(やすこ)。

生涯

幼年期

文久2年1月13日(1862年2月11日)、京都において誕生、稠宮と命名された。父・幟仁親王にはすでに熾仁親王という嫡子がいたため、稠宮は然るべき年齢に達した後に妙法院門主を相続することが内定した。しかし、明治維新による諸制度の変革で宮門跡の制度が廃されたことから、明治4年(1871年)に稠宮の妙法院相続の内定は取り消され、明治天皇によって幟仁親王が東京への転居を命じられたのに従い、稠宮も上京した。

明治7年(1874年7月8日、参内した稠宮は明治天皇から海軍軍人を志すよう命じられ、同月13日、海軍兵学寮予科に入学した。明治9年(1876年)、前田慰子と婚約。

明治10年(1877年)、鹿児島県逆徒征討総督として九州赴任中の熾仁親王からの呼び出しにより、稠宮は船で鹿児島に赴き、熾仁親王と共に西南戦争の戦地跡を視察した。

青年期

明治11年(1878年)4月、40歳を過ぎて妃との間に継嗣のできない熾仁親王は、稠宮を事実上の養子として有栖川宮の後継者にしたい旨を明治天皇に願い出る。当時はまだ旧皇室典範制定前で、皇族の継承権問題が天皇の裁量で決められたため、5月18日に勅許が出された。これにより同年8月26日、稠宮は明治天皇の猶子となり、親王宣下を受けて威仁の名を賜った。

明治12年(1879年)、威仁親王は太政官より、イギリス海軍シナ海艦隊旗艦・「アイアン・デューク(Iron Duke)」への乗組みを命ぜられ、約1年間にわたり艦上作業に従事した。帰国後の明治13年(1880年)、少尉に任ぜられたのを皮切りに12月1日に英国留学を命じられ、帝国海軍士官としての歩みを始める。10日後の12月11日、前田慰子と結婚。

新婚間もない明治14年(1881年)1月、威仁親王は慰子を残してイギリスのグリニッジ海軍大学校に留学、3年半後の明治16年(1883年)6月に漸く帰国した。

壮年期

海軍大佐として巡洋艦高雄」艦長在任中の明治24年(1891年)、威仁親王はロシア帝国のニコライ皇太子(後のニコライ2世)来日の際、外国留学の経験を買われ明治天皇の名代として接待役を命じられた。このニコライ皇太子訪日の日程中、滋賀県大津市において大津事件が発生。外国の王皇族に日本の官憲が危害を加えるという日本外交史始まって以来の大事件となったが、威仁親王の要請により明治天皇自らがニコライを見舞うなど、日本側が誠実な対応をしたことによりロシアとの関係悪化は回避された。

日清戦争中は海軍大佐であったが、開戦時は横須賀海兵団長、その後は大本営附と、いずれも陸上勤務の日々を過ごした。黄海海戦終了後の明治27年(1894年)12月8日、ようやく連合艦隊旗艦「松島」艦長として艦隊勤務についたが、翌明治28年(1895年)1月、熾仁親王の薨去とその葬儀のために一時帰国を余儀なくされた。その直後に起きた威海衛の戦いは、威仁親王が艦へ戻った時には既に終結しており、結局親王は実戦を経験することができなかった。

熾仁親王の薨去により、威仁親王は有栖川宮の第10代の当主となった。熾仁親王同様明治天皇の信任が篤く、明治32年(1899年)から同36年(1903年)まで、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の教育係である東宮輔導に任命されている。一方で、これ以降海軍においては籍こそ現役として置いているものの、実際の軍務にはほとんど従事していない。日露戦争開戦時も海軍中将であったが、一時的に大本営附となったほかは戦争に全く関与しておらず、日本海海戦が行われた頃には、ドイツ帝国皇太子結婚式出席のためヨーロッパに滞在していた。

晩年

威仁親王は生来体が弱く、軍務も度々休職して静養するなどしていたが、栽仁王の薨去後は肺結核を患い、明治42年(1909年)から薨去に至るまで、現在の兵庫県神戸市垂水区にあった有栖川宮舞子別邸で家族を東京に残して静養を行った。

大正2年(1913年7月5日、威仁親王は舞子別邸において52歳で薨去した。だが諸般の事情により喪は秘され、7月10日に遺体は「御重体」のまま汽車に乗せられ、東京の麹町区三年町1番地(現在の内閣府庁舎の付近)にあった宮邸に搬送された。この日初めて喪が発表され、薨去の日付も7月10日とされた。超えて17日に斂葬の儀が行われ、豊島岡墓地に埋葬された。これにより、男系の後継者がいない有栖川宮は皇室典範の定めによって断絶が確定したが、威仁親王の教育を受け、身分を越えて親王を慕っていた大正天皇は有栖川宮の維新以降の功績を特に慮り、第三皇子の宣仁親王にその祭祀を継承させた。

薨去の直後の7月7日元帥府に列せられ、大勲位菊花章頸飾が授与されているが、公式発表では生前に授けられたものとされた。

家族

威仁親王は慰子妃との間に績子(いさこ)女王、栽仁(たねひと)王實枝子(みえこ)女王の3人の王子女を儲けた。績子女王は生後間もなく薨去。 栽仁王は海軍兵学校在学中の1908年(明治41年)、虫垂炎によって20歳の若さで独身のまま薨去した。實枝子女王は公爵徳川慶久に降嫁し、高松宮宣仁親王妃となった喜久子らを産んだが40代半ばで結腸癌で他界した。

威仁親王ゆかりの場所

関連団体

参考文献

『威仁親王行実』上巻・下巻・別巻、高松宮家、1926年

リンク

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