日本皇民党

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テンプレート:Infobox 組織 日本皇民党(にほんこうみんとう)は、高松市に総本部を置く街宣右翼団体である。1980年代後半に竹下登元首相に対して「ほめ殺し」と呼ばれる街宣車での街宣活動をしたことで知られる(皇民党事件)。

その活動範囲については長らく西日本が中心とされてきたが、近年関東地方へ進出しており、2010年(平成22年)1月13日に構成員が小沢一郎当時民主党幹事長の自宅に火炎瓶を投げ入れようとした事件をきっかけに、それまで拠点が無いとされた東京に約20人程度の「東京グループ」の存在が浮上し、警視庁公安部が監視している[1]

来歴

1972年(昭和47年)、稲本虎翁が高松市に右翼団体として設立し、総裁となる。稲本は五代目山口組若頭宅見勝と五分の兄弟分であった。その後、稲本は高松の大日本義和団岩崎寿昭とも兄弟分であり、中国四国九州の130の右翼団体を束ねた協議団体「西日本獅子の会」を結成し、同会の理事長となる。1980年(昭和55年)5月22日に政治団体として届け出[2]。なお日本皇民党は、現在も西日本獅子の会に加盟している。

1987年(昭和62年)に自民党総裁選に立候補していた竹下登へのほめ殺し街頭演説を行い(皇民党事件)、金丸信副総理(当時)の意を受けた渡辺広康東京佐川急便社長が石井進稲川会二代目会長を介し現金工作を行って打開を図った(これは1992年に表面化した東京佐川急便事件の捜査が進むに連れ明らかとなった)。

1990年(平成2年)、京都府警に党員が逮捕され、京都府知事選を奇貨として楠木三十四を擁立、府警本部長批判を行った。党員は釈放されたが、現職の荒巻禎一陣営は、皇民党の行動が共産党推薦の木村万平への追い風になりかねないと危機感を抱き、手を引くよう要請した。立候補後の辞退はできないが、皇民党は政見放送に出演せず、選挙運動を中止。結果は荒巻が大勝した。同年12月、湾岸戦争の最中のイラクに人質解放のため向かったアントニオ猪木に稲本が同行した。

1991年(平成3年)の秋に急死した稲本の葬儀には畑時夫が本葬儀委員長を務め、本葬儀顧問に岡村吾一中村武彦志賀敏行高橋正義木村秀二といった大物右翼が並んだ。稲本に代わって大島竜珉が総裁となる。

日本皇民党の幹部の一人で、「高島匡」を名乗っていた韓国籍の高鐘守がリース契約されていた高級車を返還しなかったため、横領容疑で逮捕された。高はその2ヶ月後の2004年(平成16年)4月23日、大阪にある中国総領事館に街宣車を突入させる事件に関係したとして逮捕されている。(直接の実行犯ではない)

2011年(平成23年)8月15日、終戦の日靖国神社に参拝後の構成員津久井寛幸は元構成員の男性に対し、街宣車で連行後世田谷区の会社事務所に監禁。頭をビール瓶で殴るなどしてけがを負わせ、現金1万1千円を奪った。同年11月24日に津久井と別の構成員原田剛が警視庁公安部によって逮捕され[3]、同日中には高松市の本部など7ヶ所を家宅捜索した[4]。その後12月5日には現場で暴行の様子を撮影していた重松寛が逮捕された[5]。最初に逮捕された津久井は2010年(平成22年)1月15日に小沢一郎(当時民主党幹事長)の自宅に火炎瓶を投げ入れようとした事件でも逮捕されているほか、後に逮捕された重松は関東進出の中心メンバーであった[5]

2011年(平成23年)8月21日、東京お台場にあるフジテレビ周辺で行なわれたフジテレビ抗議デモに便乗して街宣活動を行なった。デモはフジテレビの過剰韓流や反日・侮日への抗議であったが、日本皇民党はフジテレビではなく、北朝鮮に対して「北朝鮮を叩き出せ」と怒声をあげて非難した。この際一部のデモ参加者から「帰れコール」を受けている[6]

主な批判対象

冷戦時代から左寄り(左翼)に分類される国や団体等が中心である。

出典

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関連項目

外部リンク

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  5. 5.0 5.1 テンプレート:Cite news
  6. フジテレビ抗議デモに韓国人の右翼が乱入! (日本皇民党) YouTube 2012年9月閲覧